日本明慧

北京団河労動矯正所には肉体が焦げた匂いに満ちている

2002年1月23日  文/大陸大法弟子 

【明慧ネット】

一、団河労動矯正所に送り込まれた大法学習者が一旦所に入ると、二三十の警官から電撃を加えられ、至る所電撃棒の放った青色の火花と肉体の焦げた匂いが溢れた。

二、電撃終了後、消毒室に入れられ、すべての人に強制的にへとへとになるまで大声で「報告」と叫ばせた。 

三、 それぞれの班に分散させてから、1人の大法学習者につき3,4人の刑事犯が囲むという「サンドイッチ管制」が敷かれた。彼らは勝手に学習者をののしり、殴打し、まず「23号の法令」を暗記させ、暗記できなければ休憩を許さず、深くしゃがみ、そして起き上がるという動作を暗記できるまでやらせた。

四、三四十人に1つの便所を使わせ、一日一回でただ5—7分しかなく、刑事犯が優先なので、大法学習者はほとんどまだ使っていないうちに追い返された。便所に行けないから、学習者はほんの少しのものだけを食べて生命を維持するしかなかった。多くの人がズボンの中に便を出した。労動教養所派遣処の衛生条件は極めて悪いもので、半数に近い人が体に疥癬、シラミが生じたり、睾丸がぼろぼろになったりした。 

五、派遣処のすべての大法学習者が一般に歩く時必ず手を抱えて頭を下げることを強要されたため、中に頸椎は変形して、労動教養所に転送した後も首はまた持ち上げられない人もいた。

六、ある東北出身の40歳の大法学習者が派遣処から外に運ばれた時すでに打ち殺されていたが、病院まで運ばれて、点滴をしているところまで、偽の録画を取られた。これが派遣処のある処長が漏らした情報である。 

七、派遣処から労動矯正所に転送されてきた大法学習者は、裏切りの資料を書かなければ、一段と酷い目にあう。頭を無理やり足の間に入れられ、寝床の下に押し込まれるのはしばしばあった。またある時テープ類のもので頭と口を長時間きつく包んで寝床の下に詰め込まれることもあった。東北出身の魯長君が、両手頭を抱くようにして、足の間に突っ込むようにしゃがんだまま寝床の板の下に押し込まれた。その板のうえにさらに一人が乗っていた。そのため、結局椎骨は圧迫で変形し、高位の対麻痺になった。また、顔はぶたれて青紫色になり、眼球は充血していて、凄惨でとても見るに忍びなかった。下肢の筋肉萎縮しており、3日後に精神が恍惚になり、危篤状態になったので病院に移送されたが、本当のことではなく、喧嘩でこうなったと言うようにと脅された。いろいろと紆余曲折を経て、家族はやっとその真相を知った。また謝宇峰、張艶芳が芝生に押さえられたまま、電気棒で半日近くも電撃を加えられた。東北出身の学習者朱宣武が殴られて、びっこを引くようになった。平谷県の張久海という大法学習者が殴られて気を失い、冷たい水をかけられて、やっと生き返った経緯があった。

八、社会及び世論の圧力のため、労動矯正所は手法を変えなければならなくなり、「強力な洗脳」という「車輪の戦術」をとり始め、大法の学習者に休ませず、精力を消耗させ、その意志を破壊しようとした。それでも屈服しなければいわゆる「独房」に入れさせた。独房はただ1枚の寝床の板ような空間しかなく、人は縛られてその上におかれて、ただ窩頭(一種の食品)とハクサイの水のみが供給され、旧正月の時も同じである。労動矯正所第二隊長は、「思想転化がよくできた基準は、転化の資料を書いただけではなく、人を殴り、人を罵ることもできてはじめてよいといえる」と話した。

北京の団河労動矯正所は良い人を悪魔にする悪魔の住み処である。大法を学んで高い境地を持つ道徳の高尚な人を強制的に人を罵り、殴るごろつきにするとは。これは江沢民政権の目的、事をする基準だろうか。正邪の区別もせず、時流に逆行しているのではないか。ペテンと拳術に頼っても、人の心を変えることはできず、結局自業自得になるのが落ちである。