日本明慧

無私と理性

2001年12月26日  文/大法弟子 

【明慧ネット】師はこうおっしゃった、「理性をもって法を証明する」(《理性》)。では、どのようにすれば本当の理性を達成し得るだろうか。それに関する私の考えを話したいと思う。私を例にとれば、天安門へ一回行ったが、法を証明する目的を達成していないのに、自らパトロール・カーに上がった。宣伝ビラを配布し、横断幕を掛ける場合、時々こう思うことがある:順調に宣伝ビラを配布し、横断幕を掛けることさえできればよい、しかも「師父がきっと縁のある人を見に導いてくれる」という口実で言い訳をする。実際のところ、一部分の事は本来もっとよくやれるし、もっと細心で、周到にやれるはずなのに、このような心の作用の下で、多くの仕事を十分に成し遂げず、法を証明する目的を達成せず、もしくは一部分しか達成しなかったのである。これらの考えの背後に、己の利己的な心があるため、事を実際にやる時、心があまり純粋ではなく、理性も足りないので、効果も当然あまりよくなかった。 私が思うには、法を証明する中で、心が純粋になればなるほど、はじめてますます理性的になるのである。《転法輪》の中に宝くじに当たった一名の弟子が宝くじを発売する人達にお金を還そうと最初思ったが、彼らにお金を分けられるのを恐れて、勤め先にお金を賛助金として寄付した。もし彼がただ「自分が徳を失ってはいけない」と思うだけでは、恐らくお金を宝くじを売る人にプレゼントしなかったのだろうか。彼は他人のものを取るのが人を傷つけることになると思うからこそ、本当に償いたくて、本当に他人のために考えようとして、無原則にお金を直接彼らに渡すことがなかったのである。こうしたのは本当の理性ではないだろうか。

師父は《アメリカ西部交流会における講法》の中でこうおっしゃったことがある、「みなさん知っているように、佛、神は衆生のため、宇宙の利益のために、その命を放棄することができ、何もかも放棄することができる、しかも平然とするのである。」私は今分かった、法を証明する時、本当に他人のために考え、自分を大法の中に置くべきであり、そうしてはじめて本当の理性を達成することができる。なぜなら、それは先天の自分だから。今私も仲間の修煉者の悟った境地の偉大さに気付いた。