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韓国《言論人協議報》:法輪功はいったい私達に何を説明しているのか?

【明慧ネット】編者注:この文章は2002年1月30日、韓国主要報道機関である《言論人協議報》の9ページに載ったものである。
ご承知のように、法輪功(法輪大法)はわが国を含む世界の報道機関の話題になっている。この法輪功ブームはさらに熱くなる一方だ。筆者はここでは法輪功がどうのこうのという議論はしないが、法輪功が全世界で無視できない大きな課題になっているのは否定できない事実だ。

人を驚かせる数字の後ろにある啓示
人々は話が法輪功に触れると、普通わずかな浅い認識に立ち止まっている。たとえば:法輪功を修煉する人が一億人を上回るとか、世界50以上の国で広がっているとか、中国で弾圧されているとか、などなどだ。一層深く話せば、只法輪功が人の心身健康に奇異な効果をもたらすとか、中国で法輪功を弾圧する前に党、政、軍の高層の多くの幹部も法輪功を修煉したとか、法輪功の修煉は中国以外の世界では問題にならないとか、西洋の各国が法輪功に対する弾圧に反対しているとか、何百を数える都市に法輪功学員がいるとか、ただし、中国は法輪功を酷く弾圧しているとか、等だけにおわっている。
私達はまず“法輪功はいったいどういうものか”という本質の問題について議論しないでいる。只、上に述べた人々の法輪功の数字上の認識からでも、なぜ法輪功が数年を経っても、相変わらず、世界の話題になっていて、しかも世界の報道機関の法輪功に対する興味は依然として変わらないかが分かる。
法輪功が弾圧される前の中国と、法輪功が伝播されている50ヵあまりの国の状況から見ると、教授、学者、政界高層幹部らを含む、社会上影響力を持つ人士、社会各階層が幅広く参加したのも法輪功ブームの一つの特点になっている。法輪功を修煉して、法輪功は良いと思ったのも事実だ。では、中国が国家総力を使って法輪功を弾圧する勢いは最高潮に達っしていることと、今世界で一億人以上の人が法輪功を修煉している、この事実はいったい何を説明しているのでしょうか?この1憶人以上の人たちはみんな、他人の言ったことに同調しているのでしょうか?あるいは、法輪功が無償で修煉できるからでしょうか?あるいはやはり法輪功は戒律と規定がなく、修煉するかしないか、どう修煉するかなどと関係なしに自由にできるからでしょうか?只、これらの原因によるのでしょうか?……

“李春元現象”と清華大学学生の質問
所謂“李春元現象”は筆者がこう名づけて呼ぶものだ。李春元は北京中央民族大学哲学科教師で、中国朝鮮族大法弟子である。もう30を超えている李春元は名の知れた人物で、少しの動揺もない法輪功修煉者である。
現実における、中国当局の個別統治者の法輪功に対する弾圧は、善良な人達の想像をはるかに超えている。ここにわずかの例を取り上げる。昨年の夏季、一人の地方女性官員が北京天安門広場で、日光が酷くて何回か手で額を遮った手振りが、警察と平服に法輪功修煉者と誤解され、暴行を受けた;小学生さえも法輪功に反対するサインをするよう強制され、反対しないものは学校、職場から除名される;もっと酷いことは北京に行く乗客は大法の悪口を言うよう強制され、法輪功創始者の肖像を踏むように強制された、違反者はみなつかまえられてしまう……
しかし、これらの表面化したものは、人目につかない場所でやる残忍且つ凶悪な残酷さに比べると比べものにならない。まさに韓国の有名な新聞界人士李()行先生が中国の法輪功に対する弾圧に対して評論する際指摘した通りだ:“何千何万人の無辜な者を逮捕、拘禁し、気功書籍を燃やすやり方は、まるで二千年前の秦始皇の暴力をもう一回繰り返しているみたいだ。”だが、こんなにも法輪功に対する、勝手気ままな弾圧に直面しても、李春元は横暴に恐れず、大法を攻撃する一切の中傷を激しく非難し、停職も、解除も構わず、正式に法院に法輪功を弾圧するのは憲法に違反すると起訴し、師父の潔白を返し、大法の潔白を返すよう要求した。狂気じみた邪悪に直面して、李春元は敢えて勇敢に立ち向かって、邪悪を暴き出し、邪悪を激しく非難して、同時に大法の神聖を保った。頑強不屈、大義凛然、勇敢に…李春元のこれほどの公明正大、正々堂々した挙動は京城校園全体を震動させた。彼は既に300あまりの人が当局の残酷な拷問にかかって虐殺され、その中の一部分は精神病院の実験対象になっているのを知っている。彼は自分か選択したこのみちが何を意味するかも良く知っている。だが、一人の大法弟子として、世間に正義を求めるために、流言蜚語と毒害に深く惑わされている人達を呼び覚ますために、天地を覆い隠すような恐怖に直面して全世界を背負って立った!確かに、彼を待っていたのはもちろん秘密逮捕と残虐きわまる体刑だった……
“李春元現象”は只中国大陸大法弟子の人を感動させ、涙にむせばせる偉大な壮挙の滄海の一粒
にすぎない。“李春元現象”は私達に、李春元個人が法輪大法に硬い信念、気高い風格と堅い節操を持っていたということを教えてくれるだけではない。世間にもっともっと多くの示唆と質問を与えているのだ。もしかして、法輪功の受けている弾圧にまったく不可解である人々に、深い印象を残しているかも知れない、そして彼等にこれはいったいどういうことかと思わせるように促すだろう。

清華大学の“弁論”
筆者はここで2002年1月7日《朝鮮日報》9ページに載った“ソウル大学と世界大学との比較——現場取材(2) 討論式の授業”の一文中の法輪功に関連する一短文を引用する。
教授:“民意はいつも正しい”
学生1:“では、どうして法輪功を禁止しますか?”
学生2:“韓国(朝鮮)戦争で兵士を派遣したのも民意ですか?”
教授:(顔に汗をかきながら)“一緒に研究しましょう”
……
これは昨年10月の初め、清華大学新聞学科通信報道の授業で起こったことだ。主題は“民意は何”だ。話がまだ終わらないうちに、学生達は次ぎから次ぎへと手を上げた。“韓国(朝鮮)戦争に対して、アメリカと中国は国民の賛成で兵士を派遣したが、これはただしいですか?”、“もし民意を数字で判断するのであれば、なぜ1000万人を超える法輪功を禁止しますか?”などの質問は次ぎから次ぎへと出た。その結果話が詰まった教授は汗をだくだく流し、“一緒に研究しましょう”でこの授業を終らせた。……
以上の報道は実に意味深長である。苦心して画策した、でも、抜け穴一杯の“天安門焼身自殺”事件の悪ふざけ;世界に“法輪功資料郵便物から炭素菌と疑われる白いものを発見した”と発表した一週間後、この新聞公報を否定した中国外交部の笑いの材料;昨年6月万家労働教養所の残虐きわまる体刑で15名の法輪功学員を虐殺したことをずっと隠してから、この犯罪行為が露見したら、急いでこれは“集団自殺”と発表した詭弁;昨年年末、22日の間、残虐きわまる体刑によって死亡した20名の大法学員を“自殺”と発表したこと;等など、これはくだんの質問を提出した清華大学学生と、彼らと同じ思いをしてる幾千幾万人の中国人を騙せるのか?“耳を覆って鈴を盗む”、最後になって捕まれるのはいったい誰なのか?……

“シカをさしてウマと言う”という熟語はいつまで使われるか?
東方歴史をちょっとでも分かる人は、だぶん“シカをさしてウマと言う”という熟語に関するストーリーをご存知だろう。奸臣趙高は秦二世と大臣達の前でわざとシカをさしてウマと言った、もちろんそこにいたすべての大臣とかかわりがあった。その結果少数の人以外、大多数は趙高に合わせてシカをさしてウマと言って、歴史の鏡となった。当然、そのシカを指してシカと言った大臣はその夜、趙高に殺された。しかし、シカをさしてウマと言ったものは幸いに生き残った。だから、どの国でも、どの民族でも危難に遭った時、正義と良心をちりあくたのように扱うやからはいつも忠義の士より多いのも事実で、人類歴史の悲劇となっている。
中国で起きた、10年にわたる文化大革命史を振り返ると、驚くべき筋道がみえてくる。たとえば、国家主席だった劉少奇、党総書記のとう小平も10年にわたる批判と闘争を受けた。劉少奇の罪の一つは反逆者だった。でも、文化大革命が終った後の調査は、これら全部が捏造したもので、あくまでも無理やり劉少奇に被せたもので、投獄されたほとんどの人は偽証、無実の罪の被害者ということを表明した。では、私達は中国の法輪功に対する弾圧をどう見るべきか?……

“現在中国人が咳をすると、韓国人も風を引く”
この話は2000年ソウル気功文化祭主管部門の一人が私にしてくれた話だ。彼があまりにも自然にこの話をした時、筆者はこの人にあんまりいい印象が残らなかった。でも、今わが国の一部分の媒体の法輪功に対する報道を見て、筆者はこのひとに対する思いを間違えていたと分かった。なぜかというと、これらの報道は法輪功の名を載せるたびに、我が国民が一般的なことさえ知らないのを恐れて、“中国政府がX教と定めて、弾圧している法輪功”という言葉などを度たび報道に入れている。そして、個別の報道以外は、中国当局と相違する観点をもつ報道と、法輪功に関する報道は本当にソテツの木に花が咲くような存在だ。
しかし、筆者は所有の国内媒体が全部こうだといっているのではない、もちろん、媒体全体がこうだと言う事でもない。一部の媒体は同時に中国の観点と相違する法輪功に関する報道も載せた、一部の媒体は法輪功団体を“気功修煉団体”と呼んだ。最近、一つの影響力を持つ中央級新聞に法輪功を攻撃する文章を掲載して、紛糾を起こした事件があって、当新聞社は二回法輪功に対する態度を表した。韓国法輪大法学会の“われわれの国内媒体が法輪功報道に対する立場”の声明文と、学員文教授のトピックスの“法輪功は正法”の文章から見ると、当新聞社が真心で自分の過失を表し、謝ったことがわかるし、同時に法輪功学員達が前よりもっと当新聞社を信じるようになったことは、われわれ法輪功学員がどの媒体にも先入観を持ってないことを表している。
しかし、最近、法輪功を報道する問題は昔とは全然違うようになった、一人の記者、一つの媒体が昔と同じく無責任で勝手に報道してもかまわないわけにはいかなくなった。もしかして、最近の媒体全体を震動した一つの新聞社と法輪功側の間に起こった法輪功報道に対する是非が、一番有力な説明になったかも知れない。この事件の解決中、法輪功学員は自分の名誉が損害される状況であったが、当新聞社に何一つも無理な要求をしなかった、さらに少しの暴力行為もなかった、完全に法院に起訴できる状況であったが、世人に慈悲を出し、彼等に辛抱強く真相を伝えた、ずっと辛抱強く彼等が法輪功に対して正しい認識を持つまで待っていた。当新聞社がいろんな対策で謝る時、法輪功学員達は前に比べてより一層新聞社を信じるようになった。この事実を見て、既存の媒体及び全社会が深く考えてほしい:もし法輪功の修煉が“真善忍”の修煉でなければ、これらは可能なことなのか?ということを。