日本明慧

恐怖心について


2002年3月28日

【明慧ネット】何回かの交流会に参加したところ、周囲の学習者たちが一番語っているのは“恐怖心について”でした。恐怖心というものは、この地域において“法を証明する、真相を説明する、邪悪を暴く、世の人々を救う”という活動の大きな障害となっていることのように感じます。これは法を学んでいく中で、自分が悟ったところですが、この“恐怖”が障害となるのは、その裏に隠されている執着心によるものではないかということです。“恐怖”そのものが執着である以外に、苦しむことを嫌がる心や名利を失うのを怖がること、また親戚などに対し、常人の情を傷つけるのを怖がることなどがあげられると思います。この恐怖心を捨て去ることなく“円満”にたどり着くことが出来るのでしょうか?当然その答えは否定的と思います。

恐怖心とは自分自身によるものであり、人は自分が執着しているものを捨て去ることを怖がっていたからこそ、徐々に私心が増して、一層また一層と落ちて来たとも言えるのではないでしょうか。周知のように、返本帰真をしたければ、不純なものを捨て去り、無私無我の境地となり、いつも他人のことを先に考えられるようにならなくてはならないでしょう。恐怖心もひとつの観念であるならば、物質的な存在となり、このような物質は天上に持っていけるものではないと思います。李 洪志先生は経文《大法は堅固で粉砕されることなし》の中で、以下のようにお書きになっています。“しかし、いかなる恐怖心もそれ自体は即ち、あなたを圓満成就に到らせない関であり、あなたを邪悪な方向へ走らせ、大法を裏切るようにしむける要素でもあるのです。” 

別の角度から見ると恐怖心は、旧勢力の迫害を認める行為であるとも思います。李 洪志先生は《北アメリカ五大湖地区交流会における説法》において、次のように説かれております。“彼らは元々私たちを今までの宗教のように扱うつもりでした。変異した観念は彼らの歴史上の神に対する迫害を正当化したのです。イエスが十字架に磔にされたことは既に高次元の生命がこの世で人を済度する時の凡例になりました。これではいけません。このこと自体も堕落なのです。” また前述の《大法は堅固で粉砕されることなし》において、“大法弟子としては、邪悪な旧勢力が按配した全てを全面的に否定します。”ともお書きになっています。もし邪悪が自分をつかむことを怖がるならば、それは旧勢力の変異的観念に一致するようなことになるではないかと思います。この様な視点から、恐怖心を取り除くことは、旧勢力の計画を否定することに繋がると思います。また、大法学習者は未来における佛、道、神になるとされていますが、そうであれば宇宙における不純な存在に対し、恐怖を抱くこともないでしょう。世の中の邪悪や宇宙の旧勢力に対する恐怖心を取り除くことなくして、新しい宇宙における佛、道、神に成就することはあり得ないことと思います。

春節において、李 洪志先生は経文を続けて発表されましたが、大法学習者の皆さんも現在の修煉の時間が、より貴重なものであると一層強く認識されたのではないかと思います。不純な心を取り去り、世の人々に真相を伝え、すべき事を行い本当の家に帰るのか、あるいは常人の心を抱き続け、安逸な生活に流され、数万年来の機縁を失うことになるのか、その判断は個々人に委ねられています。

ところで、どうすればこの恐怖心を取り除くことができるのでしょうか。わたし個人の体験としては、やはりまじめに法を学ぶことと思います。李 洪志先生の経文《妨害を排除せよ》には、“法は全ての邪悪、虚言を破り、正念を固めることができるからなのです。”このように書かれています。心にいつも法があれば、どんなことがあっても智慧を保ち、正念も保つことが出来ると思います。法をしっかりと認識できれば、自分の不純なところを克服でき、大法で自分を制約し、うまくできない状態からできる状態に、どうしてもできない状態から自然にできる状態になっていくと思います。行動の上では、プレッシャーに立ち向かい励んでいくことが大切になると思います。法を正す時期の大法学習者たちの周りにはプレッシャーがたくさんあり、これらのプレッシャーがあるからこそ、不純なところを暴くこともできると思います。2000年6月上旬、北京へ請願活動に行くため、会社の上司に、わたしの保証に関することを全部取り消してくれるように頼みました。上司と面談した際、“もし北京へ行ったら、党籍や仕事を失うのはもちろん、社宅も没収されることになり、さらに刑が言い渡され、労働矯正所に入れられることにもなる。”と当然の様に告げられました。もし北京に行けば、これまでの人生でやっと手に入れたもの(30年近く共産党で働いたキャリア、月に1千元以上の収入及び市長並みの官僚としてのキャリア)のすべてを失うことになります。このような具体的な問題に直面する前、自分がこれらを捨て去ることができると確信していましたが、実際これらの問題に面してみると、本当の苦と難しさを感じました。しかし、最後には命を失っても法を証明するために出かけると決意しました。プレッシャーを背負いながらも、この難しい一歩を踏み出すことが出来ました。労働矯正所を出所した後、他人の目には、たくさんのものを失ったように見えたことでしょうが、心は解き放たれたように感じていました。かつて自分に苦しみを与えていたそれらの恐怖心も消えていき、本当に我慢をしたのは一瞬のことでした。李 洪志先生は《圓満成就に向かって》の経文に、“その厳しい圧力に耐えて、法の実証のために表に出てきた弟子は偉大です。”と書かれています。常人がどうしても捨て去られないものを、大法学習者ならば捨て去れることができるでしょうし、常人は自分のために生きていますが、大法学習者はまず法を先に置き、他人のことを先に考えるのであって、自分のことではないでしょう。

法を正すことがここまでやってきた今日、大法学習者としては、恐怖という心に苦しめられるべきではないと思います。李 洪志先生は《米国フロリダ州での説法》において、“皆さんに教えますが、現在も残っていて大法と大法弟子を迫害することのできるものは学習者自身の原因です。正念を発することを重要視していない学習者、あなた達自身が受け持つべき責任を持つべき空間にある邪悪がまだ根絶されていないという原因です。”と説かれました。これも自分の悟るところですが、法を学ぶことによって、世の人々を救うことがより神聖に、そして偉大なこととなる、これは大法学習者として最もしなければならないことではないかと思います。わたしたちは思想の上から法や理を明確にし、旧勢力が仕組んだものを全面的に否定し、さらに何らかの不足なことがあっても、それを理由として迫害されるようなことをさせないことでしょう。何かの苦しみに耐えなければ、ならないことになったとしても、一瞬のことであり、将来手に入れられるものとは、比べられるものではないでしょうし、何も怖がる必要はないことと思います。李 洪志先生は《大法は堅固で粉砕されることなし》の経文に、“迫害され、たとえ本当に人間のこの表面の身体を捨てたとしても、大法修煉者を待っているのは相変らず圓満成就なのです。”とお書きになりました。 

また、《道》の経文には、“修煉はなんといっても難しいのです。天が崩壊し、地が陥没しても、邪悪が厳しく迫害し、生死存亡にかかわる時でも、まだ確固としてあなたの修煉の道を歩み続けることができる、というところに修煉の難しさが現れています。”と書かれています。恐怖心というものでは、大法学習者のすべきことを阻むことは出来ないでしょう。