日本明慧

お互いの尊重ということについて


2002年4月2日文/中国の学習者

【明慧ネット】近頃、武漢の学習者が書いた文章を見ましたが、その中の“純粋、謙虚かつ慈悲を持って、全ての学習者の修煉体験に接し、自分との差を見つけ、内に向かい修煉します。これは大法の中で共に修煉している未来の覚者を尊重することであり、自分に対しても同様のことです。”という一文に惹かれました。

以前、学習者の文章を見る際、それほど真面目に注意深くも見ませんでした。他人の成果について、あまり尊重していませんでした。むしろ、他人が、どの点で自分より悟れなかったかということを比較するだけで、自分の不足な点については、あまり見つけようとしませんでした。また、理論的な文章を見ることを好んでいました。法の上において悟り良く修煉出来ることは、当然素晴らしいものですし、見習うべきことが有ると思います。しかし、平淡だと感じてしまう文章は、見ないかほとんど見ず、いつも良くない心を持って何ページか見ては、すぐ結論をつけてしまい見ませんでした。

ある時、師父が法会で慈悲にお話しされたことを思い出しました。“わたしは座ってあなたちの体験交流を聞きます。でもあなたたちはわたしを探すことができません。”慈悲で偉大なる師父も学習者の体験交流に耳を傾けられるのに、修煉の過程にある学習者同士は、もっとお互いに尊重すべきではないかと思うようになりました。“互いに学びを比べ、互いに修を比べる”のではないかと改めて思いました。

“佛法は無辺であり、それぞれの次元にみなそれぞれの法がある。”師父はこのように説かれていますが、わたしが悟ったことは:それぞれの修煉者の修煉体験文は、いずれも自己の実践において証悟されたことです。いずれも異なる次元の中にあって、はじめて存在するものでしょう。ある文章が平淡に見えるのは言語の制約、あるいは筆者の文章表現に限りが有っただけのことであり、書かれた文章は悟った豊富な理を表現できないだけで、本当の境地はとても素晴らしいものです。純粋な心をもって理解しようとすることはとても良いことですが、筆者を軽んじてはならないと思います。なぜならば、これらの悟りは法が様々な次元において、各々の修煉者に与えている知恵なのではないかと思います。

その後、学習者の修煉体験文を見る時は、いつも慈悲なる偉大な師父の話を思い出と共に、心の中には何とも言えない感銘が、残るようになりました。これによって、修煉体験文を見る時には、真面目に丁寧で注意深く見るようになり、自分をも見つめ、その中から自己の不足を見つけ、法理に対する更なる理解を啓発できるようになりました。

師父が明慧ネットという一つの浄土を与えて下さったことに、感謝したいと思います。
文章を書き修煉向上の場を提供してくれた、学習者の方々にも感謝したいと思います。

以上拙い体験ですが悟ったことを述べさせて頂きました。皆様からのご意見とご指導を心からお待ちしております。