日本明慧

なぜ法を学び、正念を発し、真相を伝えることをよくやり遂げないといけないかについて

【明慧ネット】ある外国学員が私に毎日定刻に正念を発するその威力についてのメールを送ってくれた。また、彼女から私がもっと多く正念を発するべきだというアドバイスをもらった。私は彼女の意見に賛成するが、でも本当に真剣にはやらなかった。

その後、明慧ネットの“同修へ”を思い出し、その中で正法弟子がいまやるべき3つのことを示している:学法、発正念、中国人に真相を伝える。その文章は我々がいま重視すべきことについてはっきりと書いている。私はそれらを本当に真剣にしているかどうかを自己検討した。

私は毎日本を読んでいる。これは私にとって最も重要なことである。この面では私はまあまあだと思う。しかし正念を発するに関して、私は毎日2回正念を発しているが、それだけである。その質に関して、はっきりといって、多少形式的なものである、しかも、自分でもなにか違っているじゃないかなぁと思いつつも、私はそれを見過ごした。

私はもう一度“同修へ”の中の正念を発する評論とあの学員のアドバイスについて考えた。本当に努力しようと決心した。

最初、正念を発したいときだけ正念を発していた。その後、ある学員の言葉を思い出した、彼女は自分がほかの学習者と一緒に正念を発するとき、ちょっと早めたり、遅くなったりすると、彼女の思想がいかに雑で全く落ち着かないかと言った。私はなるべく団体で正念を発するとき正念を発すべきだとわかった。なぜ定刻で正念を発するべきかがわからなかったが、しかし、全世界の大法弟子がその時間で一緒に正念を発している事だけは知っている。我々が力を合わせるとき、我々の正念がもっとも強くなる。したがって、私は定刻で正念を発することをきめた。

私が本格的に正念を発し始めるとき、自分の努力が作用していないと感じた、自分が正念を発するとき、ほかのことを考えたり、自分の姿勢が緩めたりして集中できなかった。もっと重要なのは、自分が本当になすべきことを真剣にやっていないと感じた。つまり、「邪悪を排除するんだ!」ということだ。私は自分の行動を何と呼んだ方がよいだろうか?瞑想?ただ座っているのか?いえ、違う!

その感じはよくなかった。それでも私は毎日平均6回正念を発しており、それが数日間続いて、ある夢をみた。一匹の大蛇が木に登って人を睨んでいて、{これはきっといい現象ではない}大蛇が舌を出し、現在起きていることにまったく意識していない人を捕捉している。邪悪がそれら人の執着を捕食し、彼らの執着を利用して悪いことをやっている。しばらくしてその大蛇が落ちて死んだ。私が鼓舞された、自分の正念が標準に達していないにも関わらず、邪悪を取除くときそれなりの作用があったようだ。

また別の夢の中で、私の部屋が洪水にのまれて、自分の財産が水に漂流していて、私はなるべくそれらを無くさないように頑張ったが、ほとんどの財産が洪水で流された。私は自分の無力を感じたが、目がさめてから、これは大法の洪流が私の古い観念や執着を取除いているとわかって、気持ちがよかった。

私の身に変化を起き始めると、私は夢のなかでそれらが見え、自分の意識で感じ取れて、とても気分が良かった。

私は自分が正念を発するときの質の向上を考えた。ただ15分間座るのではなく、私は試しに法や大法弟子や衆生を破壊しようとする邪悪要素を考えた。それら邪悪の存在で、中国大陸にいる学員が悪毒な攻撃を受けていて、それが彼らが直面する生死の試練となったなどなどのことを思い出した。それらが私の正念を強めた。私は引き続き本を読み、明慧ネットに載せている中国大陸学員の経験および彼らが真相を伝えるための努力と犠牲の文章を読んで、私は自分がいかに自分の責任をまっとうしなかったのかを感じている。私は迷いから目を覚めた。

私がどうすれば中国の学員の力になれるかを考えた。たくさんの考えが湧き出て、今の自分よりもっとよくできるべきだと認識できた。私はもっと努力して真相を伝えるべきである。そしていろんな計画をたて、もっと多くの連絡がとれた。私にもっと真相を伝えるチャンスが増えた。過去と違うのは、私はもっとしっかりした。昔は感性的に大法弟子としてやるべきことをこなしているが、いまは自分が心からそれをやりたくてやっている。

進歩がそれから絶えず実践からついてきた。1週間以内の間、私は絶えずに正念を発し、毎日進歩を感じた。私の頭脳がもっと集中でき、平和になり、自分の姿勢も改善された。もっと重要なのは、私は自分が邪悪を取除いていると実感できた。

その学員がさらに私にいつも正念を保つことの重要性を言及した。別の学員も私の正念を発することに関する体験を聞いて正念を保つことが非常に威力があると発見したそうだ。

この2通のメールは先生が私に対する求めだと考えている。どうやって実践するのか?私はもっと本を読んで、明慧をみればきっとわかると思う。

学法、正念を発す、真相を伝える。

なぜこの三つのことが並んで出されたのか?いまの私の理解はこうだ:彼らは互いつながっている、法を学ばなければ、正念を堅くない、正念を発しなければいろんな環境で真相を伝える努力が弱くなり、それに真相を真剣に伝えなければ、我々の正念を発するには基本の支えがなくなることになる。法を勉強し、真相を伝えなければ、お経を読んでいるだけで心性を高めないようなものであった。正法弟子として、私達がその3つのことを全部よくやり遂げなければならない。その3つの件は互い補っていて、その中に一件でもよく出来なければ、足が不自由のようなものだった。

私はまだまだ法を勉強し、向上している、この3件のことをもっとよくできるように努力する。私の不当なところがあれば指摘をお願いしたい。