日本明慧

又も善についての話


【明慧网】師父は経文「善を説く」の中で言った。「善は宇宙の特性の異なった次元、異なる空間に於ける表現であり、大覚者達の基本的な本性でもあります。ですから、一人の修煉者は必ず善を修め、真・善・忍の宇宙特性に同化しなければなりません。」

昨日の事件が私の善の不十分さをはっきり分からせた。この事件は真相を伝えることとは無関係の様に見えるが、実際はそれはとても関係しているのだ。これらの日常の些細な事柄が、そもそも私達の心性の位置を十分に露見させることができ、旧勢力は大法弟子をテストする理由として、これらの私心を利用しているのだと私は感じる。これらの心理は又、大法に対する魔難が未だに存在する理由の要素でもある。

以下はその事件の詳細である。昨夜同居人のMrs. Xuは高速道路を運転しており出口が分からなくて夫に電話で助けを求めた。電話中彼女の夫は彼女を慰め続け、車を見つけて助けに行くからと言った。その時私は彼女のことを心配せず無関心であり、助けの手を差し伸べようとは思いもしなかった。その時私は「多分彼女の夫は私の夫に一緒に行って彼女を捜してくれるよう頼むだろう」と思い、あまりいい気分ではなかった。大法弟子として、善の気持の欠片をも持つことができなかった。この善に欠けた心は一種の黒い場のような役割をし、宇宙の特性から私を隔離させ、私の修煉を単なる形式にさせ、私が真に上昇するのを妨げた。

実際、各生命は他の生命に善をもって扱われたかどうかということに対し、とても敏感であると思う。私が無関心と敵意を人に伝えるなら、どうして人が私と融合することを期待できるだろうか。更に、誰かに対し嫌な人だと思う時、私の心は実に不愉快なのである。

又気付いたことだが、一部の大法弟子は強い善意を明らかに現わしている。彼等はとても強い善の場を持っている。この場に居る人は皆、心地よく感じ、心から善を持って応じたいと思うだろう。丁度師父が「仏光が遍く照らし、礼儀が圓明となる」と言った通りだ。

去年の夏のすばらしい経験が、私に純粋な善の境界の偉大さを感じさせた。ある晩帰宅途中で、私は突然私の全ての善に欠けた心が捨て去られたと感じた。それは一瞬のうちに別人になったようだった。私は不思議な境界に辿り着いた。その晩とその後数日中、私は実に私心の無い、他人のことを自分の前に考える美しさを経験した。その瞬間私は生命の本性はこれだと思った。生命存在の意義は他人の安寧のためにある。その時私は心の底から人に善良であることを強く望んだ。これのみが生命の本性であると感じた。心が善と喜びに満たされたと感じた。座禅中の痛みさえ感じなかった。別人になったかの様だった。この経験は忘れることができない。

時々わたしは修煉前のじぶんの育ちが悪すぎるため、四年近くも修煉をしているのに、善良な人になれないのじゃないかと辛く思った。多分以前の性質があまりに逸脱しすぎたのか、これは取るに足りない事柄ではない。平静な心で法を学ぶ他に、善に欠ける心を見つけた時にそれを確固として撥ね付け、除去するところまで達成するべきであると思う。

以上は私個人の理解の一部である。大法弟子仲間の互いの勉強交流のために一筆した。不適当なことは指摘して戴きたい。

2002年4月30日