日本明慧

理性をもって問題に対処し、正法過程の一歩ごとを穏健に歩もう


【明慧ネット】ここ一週間、遼寧省のいくつかの都市で、あるパンフレットが出回っている。その名は“全世界の大法弟子への呼びかけ:24時間......”。その中の最初の文章“緊急!全世界大法弟子への呼びかけ......”の最初の部分には“邪悪のすべての補充を断て!大魔頭を徹底して消滅しよう!!”など書かれている。これは明慧から発表された文章ではないので、その中で個人観点によって皆は法に則って認識する必要がある。しかしその影響で、すぐに学法の足りない学習者が自分の大法の仕事をほったらかして、北京まで行って近距離で正念を放とうとしており、地元で真相を伝えることに大きな支障をもたらした。正念で邪悪の首領を取除くのは重要だが、同時に私達はもっと多くの学習者がこの件を教訓として、法の上でもっと早く成熟してほしいと思っている。

先生は2000年8月9日の<理性>の経文の中で明確に指摘している。“理性をもって大法を証明し、知恵をもって真相を伝え、慈悲をもって法を広げ、人々を救い、済度します。”
また最近の講法では、我々が今最もよく行わなければならない3つのことを明確に指摘している。法を学び、真相を伝え、正念を放つことを重視する。

どれも極めて重要で、どれもおろそかにしてはならない。しかも現在“真相を伝える”ことがもっと主要になっている。この極めて重要な時期に、大法弟子が一つの全体としていかに正しく行っているか、いかに本当に“理知”、“智慧”、“慈悲”をもって、いかに穏健な一歩一歩を歩めるかということは、我々正法時期の大法弟子として、一人一人が厳粛に対処しなければならない。それによって自分の歴史的な使命を果たすことができ、自分の願望と異なる結果にならなくてすむのである。

最後の圓満までに、修煉者はだれでも佛性があり、また魔性もある。いったん人情や観念、執着が入ると、魔性が作用しやすい。このとき、過激になったり、物事に過敏になったりすることは、まさに人が魔性の干渉の下で、理性をもって問題に対処できない典型的な表れである。正法時期、旧勢力は絶えずチャンスを掴み、こういう執着を拡大し、それで修煉者の正法を邪魔している。一人の修煉者として、心が大法弟子としてあるべき平和と寧静がなければ、すぐに落ち着いて法を勉強し、自分を省みるべきである。さもなければ、一切は具体的な事情の一方的な認識に迷い込みやすい。

そのほか、ある事情の個人の理解で全世界の大法弟子に呼びかけて、なにか具体的な行動をとることは、極めて厳粛ではない、無責任な人の行為であり、まったく法に即していない。大法弟子は“法をもって師とする”のであって、法理が通れば、皆どうやって法を基点とするかを知っている。また、全世界の大法弟子の全体的な行動は、宇宙中において一大事で、どうして一人または数人の修煉者で決められるだろうか?自己膨張の心がなければ、修煉者なら必ず前もって考えるべきである。もし自分が間違っていれば、ほかの大法弟子にどんな損失をもたらすか?正法全体にどんな損失をもたらすか?大法弟子全体にどんな損失をもたらすか?それで理知、慎重に対応できる。

実は我々の正念が純正な時、どこで正念を発しても阻止されることはなく、威力は強大である。ただ我々がそれほど純正でないとき、近距離で正念を発したとき、それを補うことことができる。それでは正法の全体の問題をみると、大法弟子全体はいかに慎重に正念で除悪することと、真相を説明することの関係を対応させるか、いかに正法修煉の中で早急に不純なすべてを取除くことができるかが、直接正法の進捗と関係している。正念を発することは正法の中で大法弟子に特別に与えられた神聖なことで、簡単な人の手段ではない。特殊な例をあげると、我々が真相を伝える仕事を捨て、結果への執着、人心の忙しさ、近道を辿ろうとする心、闘争心、顕示する心、自己の功利心などをもって“正念を発する”としても、自分の期待した結果どころか、全体に混乱をもたらし、人為的に困難を創ってしまう。時間がすぎて分かった時、どうやって自分が衆生や正法に対して行った損失に直面できるだろうか?

皆が法を師とし、何に対しても過敏にならず、邪悪に付け入る隙を与えないようにしよう。同時にこのパンフレットを配布している弟子にも落ち着いてほしい。理知をもって問題を考慮し、自分がそれほど強く、皆が自分と同じことをやることは、ほかの弟子にどんな影響を与えるか、真相を知らない人にどんな影響を与えるか、邪悪の角度からみればどういう効果があるかを考えてみてほしい。全面的に、理性的に法に則して問題を見て、初めて本当に大法に責任を負うことができ、自分に責任を取り、我々に期待している衆生に責任を負うことができる。