日本明慧

最後までやり通すことに修煉の難しさがある


2002年4月25日 文/文華

【明慧ネット】以前、大使館の前で正念を発し続けていました。40時間連続で発し(24時間時かっきりに発するわけではないが)、皆は少し疲れたため休憩していました。休憩しているときに突風が吹き、大法の紹介パネルを縛って固定していた縄がほどけて、砂袋と一緒に倒れてしまいました。

私は、98年の北京テレビ局事件や99年4月25日の北京中南海請願事件の頃から、邪悪の首魁が根絶されるまでの過程を振り返り、現在の海外の法輪功修煉者が正念を発していることについて、自分が処理すべき邪悪を根絶しきれていないことに気付き、自分自身が大法の要求に達していないことを責め、心が痛むほど涙を流しました。結跏趺坐で正念を発しているときに足が痛くなるのは魔による妨害で、修煉に漏れがあるということを意味し、魔を一掃しなければこの関門を乗り越えることは出来ないと自覚してはいました。そのため正念を発する時間が終わるや否や足を崩していました。たった一秒すら我慢できないかのようです。全身全霊を込めて正念を発し、なおかつ時間が長ければ長いほど効果が良いことは知っています。しかし、二つの理由を口実として正念を発する事を逃れようとしていました。「少しぐらい休んでも影響はない。それは力を合わせてやることだから、別に無理することはない。せっかく同修に会えたのだから、私にとっては同修と多くの相談をすることのほうが大事だから決められた時間だけ発していれば十分だ。」という口実です。しかも自分以外の人もこのような変異した考えに屈してしまっているようなのです。あるとき、この様な状態が間違っているのに気付いたにもかかわらず、相変わらず現状を良くしようということはしませんでした。そのためいまだに残っている人間のある一面が、修煉して出来上った神の一面を阻んでしまっていました。自分の意志がこれほどまでに弱まっていることを悔みました。

大法は、全体的な向上こそ重要であることを再認識することが出来ました。私たち大法弟子全体が法を正す時期の基準に達することができれば、はじめて真に邪悪を全滅させることが出来ます。大法弟子全体が一つの天の網であるかのようで、私たち大法弟子が一人でも漏れてしまえば、邪悪はこの隙間から逃げてしまいます。ですから私たちは集まって法の勉強を強化する必要があり、真の金剛が粉砕されることがないのと同様に大法全体は粉砕されることがあってはならないのです。

師父の教えを思い出して、たとえ天が崩壊し地が陥没したとしても、修煉を最後まで動揺せずに歩み続けることに修煉の難しさがあると、改めて認識することが出来ました。たとえ難しくても堂々とやり遂げていくべきです。これこそが修煉で真の正念なのです。たとえ修煉の最終段階になったとしても、師父を敬い、法に則って行動し、修煉という確固たる信念があるか試練があるでしょう。これらの信念をもってして初めて修煉が成就出来るのです。邪な道に悟ってしまった一部の者や、途中でやめてしまった人々は、この最後までやり通す確固とした不動の信念が欠けているといえます。今回のことは、さまざまな原因で邪悪の首魁はすぐに根絶されませんでしたが、他の多くの邪悪は処理され、法が正される過程の大きな一歩となりました。

修煉は困難なことであり、長期にわたって生死の試練があり、それに難関な関門が連続し、しかもすべての難関を乗り越えなければなりません。修煉が確固として動揺せずに続けていけば、はじめて最終的な大いなる圓満がやってくるでしょう!