日本明慧

法を正す為の中国への旅についての反省


.(2002年ボストン交流会にて)

ダニエル・ポマロウ

【明慧ネット】御存知の通り、私は兄のジェイソンとそのガールフレンドのクリスティンと共に中国へ行った。私達の旅の全体的目的は、できるだけ多くの中国人に法輪大法の真相を伝え、彼等を充満した有毒な宣伝を取り除くことにあった。私個人の目的は単に私の法輪大法とのすばらしい経験と、それが海外で大きな認識と支持を受けたことを、一般の中国人と分かち合いたい、そして中国で続いているその邪悪な迫害と殺人を暴くというものだった。中国人は根はやさしく善良であることを、私は知っている。もしも真相を知るなら、彼等は良い人々を迫害することに我慢ならないだろう。邪悪成分と中傷的言葉によって根が包み隠され、彼等はあまりにも欺かれてきたので、その様なことが起きてしまっただけである。だから私は彼等にこの迫害によって本当に何が起きているのか、考えてもらう為に中国へ行った。どうして中国の総裁は国の全ての財源を、善人を迫害することに注ぎ込んでいるのか。どうして世界中の他の全てのリーダーは法輪大法のことを良く言っているのに、彼がたった一人法輪大法を迫害するのか。誰が正しく誰が間違っているのか。良いのは誰で悪いのはだれか。何が真実で何が偽りか。もしも中国人が心を鎮めて、混乱から一歩引き下がってこれらの疑問を見るなら、海も空も限りない事が分かり、違った場面となるだろうことを私は望んだ。

これも御存知の通り、あいにく私は中国で逮捕され拘置される前に、あまり多くを成し遂げなかったし、又元々やろうとしていた事を実行するところまで行かなかった。私は中国に一時間程居ただけで、路上でひったくり拐われ、五人程の人としか話すことができなかった。しかしこれら五人の結果はプラスだったように思えた。彼等は皆私があげた情報を見て、それが何であるか分かった時、「ああ、法輪功、有難う」と言った。だからこの意味で、多分情報を手渡す時に十分注意を払わなかったし、そういう事を北京でやるのは賢いことじゃなかったけれど、私は一瞬とも後悔していない。もしも一人がその情報を読み、法輪大法を迫害する中傷的宣伝をもう信じたくなくなれば、私の旅は価値があったのである。

何故私は路上から連れ去られたのか振り返って見ると、それは主に私が十分な正念を持たず、恐れがあったせいだと思う。秘密警察官が私をつかんですぐ、私が配った情報が彼の手中にあるのを見、「しまった、彼は情報を入手し、私がここに居る理由が分かってしまった。」とまず思った。この思いそのものが既に旧勢力の按配を受け入れて迫害に屈服したことになる。何故ならそれは私が何か危険性のある又は許可されないことをしたと認めることになったからである。実際大法と全ての衆生に責任のある、法を正す時期の弟子の基準から見て、それは私ができる最高の良い事をしていたのであり、私は威厳を持ってその場を立ち去るべきであった。

拘留された過程を通して、私はこれらの欠点をよりはっきりと理解することになり、乱暴や嫌がらせに面したとき、法輪大法への信念を保つことができるかどうかの試練となった。時にそれはとても難しかったが、私はたっぷりと助けられていると感じていたので、難し過ぎるということはなかった。私はそこに居る間中ずっとハンガーストライキをし、48時間飲食物をとらなかった。しかし空腹も喉の渇きも感じず、肉体的エネルギーは順調なレベルに保たれた。ガードに顔や胴体を殴られた時、殴り方は本当にひどかったけれど、それと同時にその殴る勢いが減少したかのように、とても虚ろに感じた。最初に逮捕された時、私は路上の対決から抜け出して威厳を持って立ち去ることができなかったことを、とても後悔した。しかし暫くの後、このような思いを持ち続けるのは正しくないと気付き、その思いを抑え、今何ができるかに焦点を絞る努力をした。師父がワシントンDC交流会で言った通り、「いずれにせよ、最終的にこれらの問題を解決する方法がある。」 これに対する私の理解は、我々がどんなにひどい立場に置かれようと、師父はそれを最良に利用し、法を正す為の環境を作り出す為に状況を転向させることができるというものだ。こう思いついてから、私は法を正し、接触する警官一人一人の悪い考えを取り除く努力をする決心をした。

尋問の為に警察へ連れて行かれた時、彼らは多くの愚かな質問をし、私は答えるのを拒んだ。彼らは突っついたり平手打ちを食わせたりして私を威嚇しようとしたが、威圧は人の心を変えることができないので、それはあまり影響しなかった。私は何故中国へ来たのかを、中国語で説明し続けた。私は法輪大法を学んでおり、私の母親も兄もそれを学んでいる。それは世界中で支持され、学ばれている。とても有益で良いもので、国のテレビが言っているのとは違う。私は殆どのガードに対し悲しく思った。何故なら彼らは私の年頃であり、法輪大法が何なのか、どうして迫害されているのか知らなかった。彼らはただ自分の仕事をしているだけで、このような事をしたくはないのだ。しかしもしもやらなければ、彼らも迫害されるのだ。それに加え、年輩のガードは皆家に家族が居た。私を夜通し監視するのを強いられた時、彼らは家に帰って子供や妻に会うことができず、結果として彼ら自身やその家族にも辛苦をもたらしている。この経験を通じ、法輪大法を学んでいるか否かにかかわらず、この迫害が如何に全ての中国人を迫害しているかを私はよりはっきりと見ることができた。

拘置所に居る間の全ての経験中、二つが特に私の心の中で浮き立つ。それを私は皆と分かち合いたい。一つは私が法を正す為に壁に中国語で書いた時のこと、二つ目は一人の若いガードに真相を伝え続けた効果について。以下はその一つ目である。

拘置所での最後の日の早朝、ガードたちが眠りに落ち、私は部屋で目が覚めていた。私はもう既にガードたちには広範囲に渡って真相を伝えて来たので、これ以上どうやってできるか方法を考えていた。ほんの少しでも良心のある者には効果があるが、迫害を楽しんでいる悪者には効果がない。それに加え新しいガードは常に、所から出て行ったり入って来たりした。私は彼らが出入りする度に見える、何か永続性のあるものを見せたかった。そこで私は部屋の壁に何か公正な言葉を書いたらどうかと思った。私の最初の反応は、この考えは正しく、もちろん実行するべきだというものだった。それから私は考え過ぎ、壁に書くことが正しいかどうかを自問した。結局それは壁であり、人は壁に書くべきではない。大法に照らして考えを評価し、長春の学習者が中国のテレビで法輪大法のビデオを放映した正しい行動を思い出した後、私の自信は強められ実行する決心をした。ポケットにあった小銭を使って中国語を書いた。「法輪大法は良い」「真善忍は良い」「法輪大法は正法である」、そして「米国大学生、2002年3月27日」とサインした。これらの言葉を書いて、私は本当に正しい事をしたと感じ、ガードが目覚めた時の心構えができていた。

ガードたちが目覚め書かれたものを見た時、びっくりして何度も何度もそれを見つめ直した。その先二時間は、それらの文字が拘置所の中でかなりの騒動を起こし、沢山の警官がそれを見に来た。彼らがその言葉を壁から消し取るのを食い止める為に私は正念をもちい、それは長時間成功した。しかしついに彼らは部屋に入ってきて、年若い少年に消させた。私は彼等の為を思い本当に悲しく感じ、それらの言葉は金でできているのだから消すべきじゃなかったんだ、と言った。それからガードたちの中の邪悪な心を持つ二人が、私の指紋と写真をとろうとし、言う通りにするのを拒否すると私をひどく殴った。これらの言葉を書きその結末に立ち向かうのは、かなり勇気が要った。このことにより、より多くのガードたちは私に対しもう敵意を表さなかった。そして殴り終わった後は、邪悪な迫害と関係するのを望まなかった。

お話したい二つ目の経験は、人々の心の中にある法輪大法に対する悪意を取り除くことにおいて、持続的で着実に真相を伝えることの効果についてである。私にあてがわれたガードたちの中、一人は特に若く英語をよく話せた。これは彼と話すのを少し容易にした。拘置一日目は私は彼と沢山話し、法輪大法の真の性質について彼に真相を伝えた。効果はまあまあだったが、とても良いとは言えなかった。二日目に彼と二人きりになった時、私は違った方法をとり彼に聞いた。「失礼しますが、私の中国語はあまり上手じゃないので、翻訳を助けて頂けないでしょうか。英語でよく言われることわざで、多くの人が知っているのがあります。それは、善は善で報われ、悪は悪で報われる、と言うのですがこれを翻訳して頂けませんか。」これを聞いて彼はすぐに理解し、表情を少し変えた。彼は、それは中国語でも昔からあることわざだと言った。私は彼に仏や道のことを聞いたことがあるかどうか聞いた。彼は聞いたことがあると言った。それから私は彼に法輪大法は仏法であり、それを迫害すると報復に会うと言った。彼にはこのようなアプローチのしかたは、もっと受け入れやすいようだった。最後に私は中国語で言った。「あなたは私を助けることができるってこと、知ってるでしょう。」彼は理解しなかった。それで私はドアの錠を指差した。彼は錠を五秒程眺めて、私が言ったことを考慮している様子だった。しかし最後に、私を逃がしたら彼は仕事を失うからとしぶしぶ拒否した。私はこのことで彼を責めなかった。この後私たちの関係はずっと良くなった。帰宅して後程、兄とクリスティンもこの同じガードに出会ったことを知った。兄は彼に真相を伝え、それも効果があった。クリスティンが追放された時飛行機まで彼女を護送したのは、このガードであった可能性が強い。彼女が彼の方を見やって優しい言葉をかけた時、彼の顔に涙が流れているのが見え、彼は間違ったことをしているのを知っており申し訳ないと言った。全てのガードたちは私たち三人と接触することになり、実に幸運だったと私は思う。

中国で受けた拘置と迫害を振り返って見て、はっきり悟るべき最も重要なことは、根本的にこのようなことは、中国人にしろ西洋人にしろ私や他の学習者に起こるべきでなかったし、起こる必要もなかったということである。私たちや大法に、いわゆるテストと呼ばれるものを要求するのは旧勢力であり、師父ではない。旅から帰った時私は、まだ迫害を容認しようとする隠れた思いが大分あるのに気づいた。それは私が拘置されている間に主に、「もっと迫害を受ければ受ける程、帰宅してから中国人学習者の迫害を暴露するのに役立つのだから、殴られても構わない。」というような考えと共に表われた。又「どんなに長く拘置されようと構わない。長く拘置されるほどもっと中国における法輪大法の迫害に注意が向けられる。」といった隠れた考えもあった。この考えはある次元においては正しいように見えるかもしれない、そして実際私は帰宅した時、真相を伝えることを沢山することができ、こちらの人や環境にとても効果をもたらした。しかし私はもっとも基本的には、このタイプの考えは法を正す時期の弟子の基準に合わないと信じる。経文「Rationality」の中で師父は言う。「大法を証明するために拘留所に入り、強制労働や懲役されるのが最も良い修煉だと言う学習者がいます。学習者の皆さん、そうではありません。」「大法を証明することこそ本当に偉大であり、大法を証明するために表に出てきたのであって、表に出て来た以上、大法を証明する目的を達成しなければならず、それこそ表に出る本当の目的です。」私たちの中国へ行った目的は逮捕されるためではなかった。大法弟子の基本的な偉大さは邪悪の迫害に逢った時に、堅固としていられるかどうかにあるのではなく、それよりも旧勢力の按配を破り、そこから抜け出し、法を正して迫害を受けないようにするところにある。

学習者が迫害に面した時に堅固としていられるかどうかは、実にきわどい問題である。しかしそれを成し遂げられるか否かに関係なく、この迫害を指揮する者は宇宙に対し巨大な罪を犯しており、この事が終わった時に自分がやった全てに責任をとらなければならない。言い換えれば、警官が学習者を殴ることは、学習者がそれに耐えられるか否か、そして信念を揺るがすことがないかだけの問題ではなく、その警官が将来破滅に会うか否かの問題でもある。衆生救済は私たちが真相を伝える能力にかかっているだけでなく、彼らが私たちを迫害できない程十分正しい心を私たちが持てるか否かにもかかっている。私が理解するところによると、それだから師父はこの迫害を終わらせるに関して、いつも私たちが執着を放下することの重要さを強調する。執着を放下することは自分の宇宙体系とその全ての衆生を、成就させることができるかどうかを決定するだけでなく、旧勢力からどれだけの迫害を受けるかをも決定する。このことはまた順次に、何人の者が旧邪悪勢力に悪行を行うことに利用され、将来その結末に向かうかを決定する。私たちの執着が少なければ少ない程、旧勢力が私たちをテストする理由がより少なく、大法への敵意のために危険な状況に置かれる者もより少ない。この様に考えることは、真に大法に責任を持つことであり、最も慈悲深くあることと、私は信じる。

学習者仲間と友人と家族が、私が中国に居た時に非常な支持を与えてくれたことに感謝したい。特に私の母、彼女が落ち着いて正しい心を持ち、恐れに屈服することなく事態に立ち向かうことができたことを、私は誇りに思う。他の人たちもこの旅を正念を持って見、いわゆるテストはどれも避けられないものではなく、迫害はどれも許せることではないということに気付くよう望む。皆さん有難う。

2002年5月11日