日本明慧

法を正す期間、社会的地位の観念を完全に除く


【明慧ネット】一人の学習者と私は同じアイデアを持っていた — 教会へ行って真相を伝える。そこである日曜日、私達は真相を伝える資料を持って礼拝時間中に教会へ行った。礼拝者の邪魔にならないように、私達は最後列に座った。そこで私は一念だけをもって待った — 礼拝が終わったら牧師さんに真相を伝え、資料を渡そう。

礼拝が終り、牧師さんが帰る人達にさよならを言いながら、ドアの方へ真っ直ぐ歩いて行った。私達は彼と話す機会をつくる為に、皆が居なくなるまで待った。私達の隣に控え目な人がちらしを手渡していた。彼は私達の方へ話しかけて来て、来る講演についてのお知らせをくれ、参加するよう誘った。彼と話している途中で牧師さんが去って行くのが見えた。私はすっかりがっかりして、これは邪悪の妨害だと結論にはしった。それから自分に尋ねた。どうして私は牧師さんに真相を伝えることにそんなに熱心で、この控え目な人に興味がないのだろうか。私は自分の中に隠れた観念があるのを見つけた; 社会的地位の高い人を平凡な人よりも重要視する。その心はとても不純だ。師父は言った、「社会で接触する全ての人は皆、私達が真相を伝える対象である。」(北ヨーロッパ法会の皆さんへ)

私はこの観念を完全に除く決心をし、この人と会話を続けた。彼は最初はいくらか懐疑的だったが、それでも私の言う事を続けて聞いてくれた。私は牧師さんの為に持って來た資料を全部彼にあげた。彼は、それを注意深く読むと約束し、私達はその講演に参加する約束をした。

講演で私達は再びこの人に会った。彼は来る国際的催し物について述べた。講演が終わった時、私は彼に近づき、その催し物の日付を聞いた。彼はとても親切で、もらった資料をもう読み終えたと言い、その催し物に私達を誘った。私達は長い間話した。別れる時彼は名刺を私に手渡した。彼は政府機関の役人であった。法輪功の情報を彼の同僚や上司に廻す約束をしてくれ、講演に來ていた他の政府役人達に私達を紹介した。純粋な心をもって大法の仕事をするなら、師父はいつも私達を導き、物事は妨げもなくスムーズに運ぶという事に私は気付いた。何故なら邪悪は抜け穴を見つける事ができないからである。

一部の学習者は「重要な」又は「有名な」人物に力を入れるのが好きであることを私は思った。社会の平凡な人を扱うのは、興味がないように見える。困難に会うとすぐに、これは邪悪による妨害だと思ってしまう。これは知覚の問題だと思う。師父は言った。「我々の法輪大法修煉の形式は、ほかでもなくこのようなもので、如何なる国内国外の政治勢力にも身を寄せません。」(精進要旨: 修煉は政治ではない) 法を正す過程を数人の重要な又は有名な人物に頼ることがどうして可能だろうか。私達の望みを平凡な人を無視して、政治家や重要人物だけにかけることが正しいだろうか。これらは皆執着である。それは実際、利己的な心を隠す。もしもこの執着を断念しないなら、いわゆる重要な人や政治家に真相を伝えるのは難しい。これは師父の法を伝える為の北米旅行の中で述べられた首相の情況を思い出させる。それに社会的階級は善より起きる観念ではない。師父が全ての弟子を社会的地位に関係なく等しく遇して下さるので、私達も救済しようとする時、全ての人を同様に扱わなければならない。それが真の大法弟子の慈悲の現われである。

これらは同修の参考までに単なる私見である。

ヨーロッパ女性学習者筆

2002年5月21日