日本明慧

真実を言い続けることは騒動を起こすことではない


【明慧ネット】文/大陸大法弟子

真実を言うことは人間の天性であり、人間の権利でもあります。人間は動物とは違い、生まれて言葉を習い、思考する能力もあります。社会が発展し、人類が進歩すると、人間の言論の自由を保障する空間は拡大するはずだが、政治的な原因で言論の自由が制限されることもあります。例えば、法輪功学習者が迫害を受けている中、上申をして真相を説明することは、本来なら合理的かつ合法であり至極当前のことだが、“騒動を起こす”ことだとレッテルを貼ってしまう人がいます。

“法輪功が良いと思ったら家で煉功し、外に出て騒動を起こさなければよい”という人がいるが、その中には本当に学習者のことが心配で言っている人もいれば、悪辣な下心を持って言う人もいます。本当に悲しいことです。社会がこれほど善し悪しの見分けがつかないところまできています。“人は奴隷の身分に慣れたら、当然のように思われる”という中国で昔よく言われた言葉には、なるほどと思うところがあります。

自分の行為を正当化するために、“騒動を起こす”とレッテルをはってしまうことがありますが、これはあまりにも不公平です。一人の市民—自由な人としての人格、尊厳、法的権利を奪われることにひとしく、その本質は人間としての基本的な権利さえ守れないことは、悲哀を感じます。

天から授かった本能、人間の権利は言葉で表現します。喜怒哀楽も言葉で自由に表現できるはずです。“言葉”によって文化も創造され、文明も発展しています。言葉はあまりにも重要です。言葉によって心が通じ合い、友達をつくり、危機を逃れ、真偽を分別する。さらに、先生の言葉によって疑問が解かれ、商人の言葉によって利益をもたらし、軍人の言葉によって敵となります。

実は言論を制限することは自分の“声”だけを主張したいからです。これは可能でしょうか。森林の中で一つの音だけが響くというのは恐ろしいことで、一つの社会の中で一つの“声”だけが許されるのは、悲惨で暴虐的なことです。事実上、世界中で中国が遅れをとっている根本的な原因は、何千年来いつも一つの“声”だけが許され、民族の智慧が抑圧され、人々は“口のきけないひと”になってしまい、不本意なことを言い続け、従うことになれています。“災いは口から”という言葉は代々自分の目の前の利益だけ貪り、一時的な安逸だけ求める人々の処世の哲学になっています。そもそもあなたも彼も皆敢えて本当のことが言えないから、執権者の思惑どおりにいってしまう。さらに執権者は、何者も眼中になく、したい放題にでき、独裁専制下で敏感な話題や私語することさえ堅く禁じています。古人はかつて“万馬が皆声なく、哀れをきわめる”(清代の詩人の言葉で、清朝の統治下で人民が大胆に言えないことをさす)という局面を悲しみ嘆いたが、今日に至っても人民は声を出せず独裁者だけが大声で叫んでいるが、これは絶対に文明が進歩、発展したとは言えないでしょう。

言論の自由は各国、各民族、各朝、各代に節操の堅い人、烈士、英雄により、命を惜しまず血を流して勝ち取った権利であり、憲法、法律、国際人権条約にも明文規定した市民の合法的権利です。中国ではこのような権利を主張するため多くの人々が犠牲を払ってきました。近くは四十年代から今日まで数え切れないほどの命が奪われました。自分の目の前の既得した利益と安逸のため、正義のための発言を避けるのはきわめて危険なことです。

なぜ市民の“声”を恐れているのか。それは言うまでもなく、自分の見苦しさが暴露されるからです。是非善悪をあべこべにし、理非曲直を混同するのに良心のある人なら黙っていられるのでしょうか。好い人を悪い人と言いなすのに沈黙でいられるのでしょうか。もし、あなたが道理があるとすれば議論を避ける必要があるのでしょうか。古代のあ皇帝は“庶民が安心して田畑を耕すのは嘆息恨みがなく、政治が平穏で訴訟が成り立つからである”と言った事があります。このように“声”があがるから天が崩壊するわけではなく、肝心なのは公平合理であることです。理にかなわないと民衆の不満を抑えることは難しい。是非を明らかにし、善意を持って解決すれば当然“騒動を起こす”ようなことはありえません。“騒動を起こす”と言い出す自体が自分の心底の不安を露呈し、落ち着かないことの表れでもあります。焦ってはでたらめを言い、理知を喪失するしかありません。しかも法輪功学習者の“声”は完全に平和で理性的であるからもっともです。

ある人は“煉功だけ続けて政治には参与しない方がよい”と言うが、そもそも政治とは何でしょうか。私の理解できる範囲で、政治の本質は社会で代表される各階層、各派が自分の利益のため行う一定の行為であると認識しています。それは各方面が含まれるが、主な特徴は政権とつながるから人々は政治としてみなしていて、そうでないと一般的に政治として思われません。政府があることを処理するにあたって、法律に違反したので陳情或いは無実を主張することが政治だとすれば秦香蓮、秋菊の訴訟も政治になってしまいます。下崗(一時休職、実質的には失業)職人が政府に対して補償を求めるのも政治に参加することになります。簡単に政治のレッテルを貼るのは、個別の下心を抱いている人が民衆を脅かす陰謀に過ぎず“声”をかたく禁ずる慣用的手段に過ぎません。実際、法輪功学習者が穏やかな心で陳情することは政府を信じ、憲法が与えた市民の権利を履行するに過ぎず、社会に責任を持ち、政府を信頼する真の愛国行為であって、政治に参与していないのは明らかです。

またある人は法輪大法は“忍”を重んじているから何があっても沈黙を保つべきだと主張していますが、あまりにも偏ったかたくなな認識です。“忍”の内涵は博大で、個人の修煉の過程で、殴られても罵られても同じやり方でかえさないのは一つの“忍”のあらわれですが、これは“大忍”ではなく、“大忍”は真理のためすべてを惜しまないことであり、大法弟子はかつてなかったことを実践しています。

法輪大法の“忍”を、不公平な待遇を受けているにもかかわらず黙っていることだと認識し、呼びかけへの“声”を“騒動を起こす”と決めつけてしまうと、事情を知っている人にとってはまったくでたらめで、個別の下心を持って弾圧するものにとっては、自分の暴行を隠し卑劣で恥じ知らずの嘘を弁解する良い道具になってしまいます。真理と誤謬、根本的な是非をはっきりさせるには人民の“声”がなくてはなりません。真実を話さなければ、理をはっきりさせるには足りないところがあり、真偽を見分け難く、悪人の陰謀は目的を達するようになります。ひどい弾圧にもかかわらず沈黙を保つことは邪悪に屈服し、邪悪を黙認し、邪悪を受容することに等しい。このようなことは真理、人民、国家、民族に対しても無責任なことであり、真理と人間社会の正義のために皆が勇敢に不正なことに“声”をあげるべきであります。