日本明慧

法との関係を正しくし善をもって同修に接する

【明慧ネット】2002年5月24日 文/大法弟子

長い修煉の中で、私はずっと明確ではなかった認識があって、修行を積まない普通の人に対しては寛容にできると思っている反面、一緒の同修には少し厳格になるべきだと思っていました。時として、自分の不適当と過失で同修に迷惑をかけたにしても、あまり気にかけず、苦労は彼らの向上のためになると認識していました。

それは間違いだと考えた時もありましたが、しかし、彼らにあまりに心地よくさせたり、あるいは、彼らに存在している問題を伝えたりしないと、彼らはどうやって向上できるのだろうかという思いがいつもありました。このように間違いは、いつも自分自身が正しい法の見方に立っていると思っていて、逆に考えずにできないでいました。

最近同修の文章を読んで、私は今明確にこのような認識は間違いであることを意識しました。実際こういった認識は大法と修煉者としての関係を正しくしていないとういことです。
師父は近ごろ何度も宇宙の中の古い勢力の情況と表れについて講じられました。師父は私達に法を教えています。

私は、今、私達修煉者の自己観念の、各種の表現と執着の根源は、まさに宇宙の中の古い勢力であると理解しています。宇宙中ですべての生命、更に高い神は皆法によって創造されましたが、宇宙のこの最も根本的な法は師父によって創造されたのです。旧勢力は知らないばかりかこの事実の承認を願わないのです。それらは師父を修煉者と見なして、「正法」のためにすべてを手配して、古い宇宙の道理で大法と大法弟子にいわゆる試練を造ったのです。
私達は大法の中で修行を積んでいます。生命を創造し更新するのもこの法なのです。私達の更なる高い修煉も、認識の進歩も、全てが師父と法から与えられたものであって、法に従うべきであります。もし私達が自分の認識あるいは法の中の話をもって他人に求めるなら、それはまさに旧勢力の表現ではないでしょうか?

“同修であるのなら苦労と少しの面倒くらいは彼らのためになるから”という考え方は見たところなるほど、そのとおりだと思われます。

少し考えてみると、もし宇宙の中のすべての生命がこのように思うならば、それではこの宇宙はどんなありさまでしょうか。他人に対して、法を破壊さえしなければ救いようはあるので、善は無条件であるべきなのです。善で相手を扱うと、相手を圓融させることができるのです。
もしすべての人がこのようにするならばそれはどんなにすばらしい光景でしょう。私達は大法修煉者であって、法の中におり、大法をもって自分に厳しく要求すべきであり、他人に求めてはいけないと思います。

年輩の学習者が話した一つの古い「物語」を覚えています。その時の師父は未だ郷里の長春におられ、大法の事で彼を一度長春に来させた時の話だそうです。

この年輩の学習者はそれまで長春に行ったことがなく、飛行機を降りてからの道を知らなかったのです。師父はこのことを知っておられて自ら空港まで迎えに行かれました。迎えに行かれた後、彼のために宿泊の手配をされました。その時、長春の天気は、ちょうど冷たく凍ってとても寒かったのです。もともと、この学習者は師父の家に泊まる予定でしたが、師父はこの学習者の年を考慮され、暖房がない自分の家ではなく、暖房のある旅館を紹介されたのです。
ある一人の学習者は天地を覆い隠した悪の弾圧がちょうど始まる頃、邪悪の勢力に捕まえていかれたのです。巨大な圧力の前で、いくつか言うべきでないことを言って、後でひどく後悔しました。刑務所の牢獄の中で、ある時、師父の法身が来られているのを見て、師匠に“私は言うべきでない話を言いました。あなたはまだ私を構ってくれますか?”とききました。

師匠は“あなたは私の弟子で、私はなぜ貴方を構わないのですか?”と返事を返されたそうです。

この二つの例は今の私達にとって分かることの出来る一部であります。師父は弟子に対してこれだけの哀れみと愛護を注がれています。それに対し、同修であれば苦労と少しの面倒くらいは構わないという、私達の頭の中での考え方を存在させる理由はまったくないのです。

私達は仕事をする中で異なった考えがあり、言い争いが止まらないのは、恐らく一人一人が正しいとする自分の理由があるからだと思います。

それでは、修煉の角度から見ると、私達は更に慈悲と寛容で同修を扱わなければならないのです。しかも、物事はまた一方的な認識で別の極端に入り、同修であっても明らかに大法とかけ離れている問題については、彼らに指摘しなくてはいけないのです。

自己に執着し、自己の観念あるいは他人の気にくわないことと、純粋で良い心理状態で人に問題を指摘してあげるのはまったく違うことであって、結局違っているのです。

修煉体験交流会はこのように、自分の修煉の中での本当の実体と認識を述べることであり、私達みんながこの中から自分の隔たりを見つけることができ、法に対する理解をはっきりさせるのです。

着眼点は法に対しての責任であり、みんなの全体の向上が目的なのです。

これは師父の私達に対するご慈悲であり、できるだけ早く修煉が向上する方法として私達に与えた修煉形式なのです。同修の心得と経験は、私達の心得と経験なのです。

振りかえって自分を見てみると、修行を積まない普通の人に対して少し寛容にはなっているのですが、それも条件があり、自分は彼らより強いと感じているが、同修の問題に対してはそんなに平然としていられないのです。実際には自分自身に執着し過ぎて、いつの間にか自分を正しくない位置に置かせたのです。

以上は個人の分かりやすくて、一方的な認識なので、間違っているところは是非ご指摘お願い致します。