日本明慧

友達の郝さん:真実を実現する法輪功学習者


2002年5月21日

【明慧ネット】5月21日大紀元からの報道: 1997年、私はすでに法輪功の本を読みました。その本を読んでから、私はぎごちなく法輪功を修煉している友達に対して一言を投げかけました。「今の時代で、まだこのような愚民する理屈を言っているのか!」その後、お互いに忙しいので、だんだんその友達との連絡がなくなりました。しかし、それからなぜか私はいつもあらゆる法輪功の情報に関心を持つようになりました、特に1999年以来、国内で法輪功に対してさんざんに罵ったり攻撃し始めてから、私は初めて法輪功は一つの大きなことであると意識しました。しかし、どうして堂々とした一つの大国が、ただの一群の煉功する民を、斗争の相手の立場に押し込んでいるのでしょうか?これは天下において、一番の滑稽なことではないでしょうか? 

このような疑問を持って、私はネットから国外の法輪功に関する報道を印刷して、1999年の年末に、これらの報道と評論を持って国に戻りました。家に着いてから家族たちと一緒に法輪功について検討し始めました。母親は怖くて顔色が真っ白になってしまいました。私が持って帰った資料を指して、母親は震えるほど言いました。「これだけの根拠で、あなたは捕まえられるよ。我々の家族全員の安定した生活がなくなるよ!」あらゆる親友と知人は、中国のどこでも法輪功のことを話題にすれば、みんな顔色が大きく変わりました。 法輪功に対する好奇心を持っているだけで、私は自分自身から “赤色の恐怖”を初めて感じました。ひとびとは法輪功に対する恐怖を感じているわけではなく、迫害の恐怖に対する怖さが、骨の中に染み込んでいました。 

私は沈黙を守って祖国に戻りましたが、今回の経験は、法輪功及び中国の法輪功に対する弾圧の動機を、深く考えるチャンスを与えてくれました。この恐怖について話しましょう。国内の平民は政治運動や、政府の口舌となっている、新華社の言論及び政府が誰を批判するかという動向に対する恐怖が、極点に達していました。どのような言葉で形容すればよいかもう分からない程になりました。“整”と“闘”の歴史の“精髄”は、すでに平民たちの骨の中まで“恐怖” という文字に入れ替えられました。誰もが分かっているように、誰かがもし共産党に“整”と“闘”の対象と見なされれば、死ぬより辛いことが起こるでしょう。共産党の整と闘の歴史を見ると、敢えて立ち上がって本当のことを言う人は珍しく、彼らが失ったのは命の代価でした。それこそ、これらの命の名前は歴史の中に残っていますが、他の人はみんな、自分の尊厳と良知を、恥のように恐怖と裏切りというものの中に埋めました。歴史の今日において、共産党はさらに多くの、さらに残虐に人を苛める方式を蓄積しました。法輪功だけが、このような大規模であっても、平和的な方式で抗争しています。かれらの抗争している方式は一つしかありません:真善忍を放棄しないことです。この沈默的な無畏は私を震撼させました。彼らが本当に真善忍を実現していることを、私は分かっています。私は自分の心に聞きました。「仕事、生活、生命が侵される場合でも、私は違言をしないことまではできないでしょう。個人の利益が損なわれるときには、私は正義の声を出すことはできないでしょう。もし、公衆バスの出入り口の地面に法輪功創始者の写真が置かれていたら、捕まえられることを恐れ、私もそのまま踏んでしまうでしょう。」ところが、法輪功の弟子たちは確かにこんなに“馬鹿”です。一つの “真”の文字のために一切、命まで捨てることができます。彼らの“馬鹿さ”は私の身を震わせました。一人一人の普通の平民たちは赤色の恐怖の下で、敢えてこの骨の中の恐怖を除き出しました。私は法輪功を尊敬しないでは、いられなくなりました。どうして法輪功は新しい生命を塑造することができるのか、私は改めて考えなければなりません。

彼らが神様を信仰しているためですか?神様を信仰している人は、確かに人間は死なないと信じていますが、私も神様の存在を信じています。しかしどうして私は彼らのように死んでも屈しないことができないのでしょうか?私は死ぬことを恐れていないとは、いえないのです。先に待っているのが、牢屋と酷刑であることがはっきりと分かっている場合に、嘘をつかないことは、私にもできないでしょう。要するに、法輪功の“真善忍”はすでにこれらの普通の人たちを真の人間に生まれ変わらせました。彼らは本当に“真善忍”で自分を変えました。多くの人は法輪功の人が本当に理屈も知らず、馬鹿ばかりでなく頑固であるとも言いました。中国が法輪功を迫害する前に、一人の友達はこう教えてくれました。「法輪功の人たちは本当に金銭を糞土と見なすことができます。職位、賞金などを、彼らは全然気にとめないのです。」現在の酷刑と迫害の恐怖を前にして、彼らは命すら失っても違言は言わないということに対して、ある人は、かれらが理屈を知らないと言うかもしれません。以前は私もその観点に賛成する可能性があったのです。しかし、今私は本当に法輪功を改めて注目し始めました。正直に言えば、私は彼らに敬服しています。彼らの人格に感心しています。彼らの信仰を守る勇気に感心しています。彼らの堅く、屈服することなく、生死を薄くみなせるほどの度胸に感心しています。これは本当に普通の人間には届かない境界であると思っています。 

法輪功を練習したせいでこのように愚かになったと言った人もいました。「はっきり言うと精神病ではないでしょうか。天安門へ横断幕を出す事で徴役を受けたり、労働教養を受けたりする可能性があることが分かっていても、政府の話を聞かず、また行くのは、死へと赴くことと同じではないでしょうか?病気ではないでしょうか」という観点を持っている人もいました。実際、その法輪功の友達は精神病ではないばかりでなく、我々と会った法輪功たちはみんな正常です。精神病院をあなたは見たことがありますか?中の精神病患者は電気棒と薬で制服されて、みんなおとなしくなりました。電気棒で制服されない精神病患者はいないようです。もし法輪功が病気であれば、どうしてその何万ボルトの電棒の下でも、変わらずに、自分の信仰を守っているのでしょうか?「法輪功たちはすばらしいです。生きているあり方は普通の人間と同じではないのです。お金のため、名誉のためではないのです」。一番感心するのは、法輪功は中国人における何千年来の根強い、身を守る明哲を超越したことでした。 

江沢民は法輪功を選んで、自分の政権を固める標的としようとしましたが、探した対象は大いに間違いました。法輪功はあなたの政権を脅かしているわけではありません。何年間の弾圧を通して、江沢民自身は、法輪功がどのような人たちであるのか、一番分かったことでしょう。おそらく現在江沢民の頭の中では、法輪功に罪を着せることは、大変なことを招いてしまい、万番の手段を使っても抑えられず、騎虎の勢になってしまったと思っているかもしれません。共産党の"革命"の歴史を振り返ってみましょう。彼らが征服したのは、みな二股をかけている人、身を守る明哲を持っている人、唯々諾々として、いつでも人間の尊厳を捨てられる “軟骨”でした。実は江沢民本人はこういう人なのです。中国の大地の上に法輪功というような “骨のある”人間が生まれたことを、彼はどうしても想像できないでしょう。実は彼は誰よりも分かっているのです。法輪功を騙すことは不可能だということを。ですから、彼らのいま言っていることと、書いていることに脅かされている人たちは、ぜんぶ自分の主張のない人ばかりでした。もし我々が、やはりまた以前のように唯々諾々として、一方の話だけを聞いていたら、我々はいつまでも彼らの手の平の中の軟骨のままでしょう。 

私はその法輪功の友達にメールを送りました。「私は全力をもって貴方たちを支持します。しかし、貴方たちはいくら死ぬことを恐れなくても、気をつけるべき時はやはり気をつけてくださいね」と。