日本明慧

東ヨーロッパの訪問から悟ったこと:第一線と第ニ線,個人と全体


2002年6月5日 文/ヨーロッパの大法弟子

【明慧ネット】このニ日間、修煉者仲間は邪悪の首謀者が東ヨーロッパを訪問した過程を討論する中で、いくつか感銘があります。みんなと交流するために文章を投稿します。適当ではない所があれば、同修の方、慈悲のご叱正宜しくお願いします。 

1、第1線と第2線

最近見つけましたが、学習者の中で多くの人は徹底的に首謀者を一掃することをとても重要だと思い、しかも世の中で直接第一線で悪に直面しようと思っています。自ら東ヨーロッパに行けない様々な原因があるため、自らは第ニ線でだと感じています。そのため思想の中で部分的に緩み、甚だしきに至っては傍観した状態にあって、自ら行動を共にしている主体の一部ではないと感じています。私は思います、本当に規模が雄大で勢いのすさまじい事は別の空間で発生していることだと。純粋な正念が多くの空間を突き破る時、私達は近い距離かどうかに関わらず正念を発することが師を助けて法を正し、邪悪を除くことの第一線に出ていることです。首謀者に直接直面することができる学習者は結局少数で、首謀者を取り除くのが天意で、私達すべての大法弟子も天意に従って行っています。私が体得しているのは、法を正す中で大法弟子達にはそれぞれ異なった役があります、しかし正念で邪悪を除くことはいわゆる第一線、第ニ線の概念は有りません。

2、個人と全体

最近修煉者仲間と交流する時、多くの学習者が考えることは、自らどのように困難を克服するべきか、どのように邪悪を除くことに参与するか、自分の心はまっすぐかどうか、どこに行くべきかを見つけたかということです。大法弟子と法を正すことの、全体の局面の角度から見ることをないがしろにして、みんなはどのように合理的に異なっている役を分担して、どのようにいかなる邪魔した環境を受けないことを創造することができて、私達が順調に私達の共通の歴史的使命を完成することができることを保証する。ある学習者が言うには、ひとつの粒子として全体的計画に従うことができます。私はそれを理解し、自分の認識と按排に執着しないのはもちろん良いことですが、しかし全体的計画に従うだけではないのならば、主導的な立場に立って全体の角度の上で考えて探求すれば、恐らくもっと良くなることができるのではないでしょうか?結局この二つの構想の出発点はそれぞれ同じではなく、容量も違っています。