日本明慧

自分の一念を監視する

2002年6月16日 文/文華

【明慧ネット】私たちは皆知っている。人はとても弱いもので、一枚の服のように、誰かが着れば、その人となる。私達は常人社会で修煉しており、正念が強くない時、はっきり言うと常人のようである。三界中の粒子が通じ合っているため、もし私達はいつも正念を維持しなければ、よくない考え、特に人の観念が私たちの頭の中に残ってしまう。それによって私達の言動を左右し、邪悪の旧勢力も隙に乗じて邪魔することができる。特に今の正法過程の中で、私達は更に常によくない念頭を一掃しなければならない。私たちの一つ一つの言動を監視しなければならない。

たとえば、もし私たちは心の中で今度の正と邪の大戦がどこで戦闘を終えるべきだという考えを持つならば、大陸で邪に悟った人のように、迫害がいついつに終えるべきだと思い時間になっても自分の願望が実現しないと、すぐに失望し迫害の中で簡単に逆面に向かってしまう。前回のドイツの戦いと一緒で、邪悪がまだ存在していることを知ると失望して、それによって大法弟子が邪悪を消滅することができる自信を否定してしまう。実は、希望というものは人間の観念で、この世界はこれまで人の思った通りになってきたのではない。人は予測することはできない。特に今の正法の事は、誰も予測することができない。先生はこう仰った。「私がこのことを行う前は未来がありませんでした。」今度の大戦は、先生がどのような按配をされたか、旧勢力はまたどのように計画したかに関わらず、私たちは修煉する人として考慮する必要はない。私たちは先生の教え通りに行うことをはっきりすればよいのである。このように硬く信じることは本当の知恵と自覚だと思う。

私たちは時には自分の理解を強調して、まるで先生の教えについても、私たちが理解できることを積極的に行い、理解できないことには消極的に対処する。これではまったく個人の観念で法を量っているではないだろうか? 今、私たちはアイスランドでそれとも或いは中国大使館の前で、或いは中国大陸で、私たちは厳格に先生の要求通りに行い、いつも慈悲で優しい心態を維持する。他の空間のまっすぐな大戦はもっと激烈で、私たちはここにいてもっと気持ちが落ち着いて、いかなる人の考えにも左右されない。静かに座って、いかなる願望もなく、世の中で何が変化するか、発生するかに関わらず、私たちは静かに正念を発する。「一つが動かなければすべてが動かない。」

以前は正念を発するときに、いつも自分が法輪、兵器を打ち出していると感じていた。最近では自ら出した一種の豊かな慈悲と善念が宇宙の中で充満して、万物を潤し、万物を変えた。一見柔軟ではあるが威力はこの上なく向かうところすべて威力あり。

以上はすべて個人の体験です。ご指導ください。