日本明慧

嫉妬と顕示心理を根こそぎにし、正しい考えを隠さず利己心なく表現する


大陸大法弟子筆

[明慧ネット]師父は言った、「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、皆さんが修煉し圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。」(転法輪第七講)、「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです。」(「定論」精進要旨)

私はいつも自分のことを嫉妬心の少ない人だと思っていた。そして法理を速やかによく理解できるたびに喜ばしく感じるのが常であった。私が書いた文章が次々と掲載されると、自己満足を感じるのが常であった。師父が他の弟子が書いた文章に意見するのを見ると、とても羨ましく、「師父が私の文章に意見してくれると良いのに」と思った。

少し前に私はいくつかの文章を書き、うまく書けたと思った。しかしそのどれもが掲載されなかっった。掲載された他の弟子による文章を見て、私のもの程良くはないと思った。様々な執着が現われ、少し不平を感じた。編集者は多分まだ私の文章を受け取っていないのだと想像してみたり、適当な時期を見計らって後程掲載されるのかも知れないと思ってみたりもした。そのうち私は文章を書くことに興味を失った。

昨晩私は夢を見た。私はある役を演じるよう指定されたが、様々な理由をつけて断った。目覚めた時私は自分の内面を見始め、強い執着心があるのを発見した。私の文章がしばしば掲載された為に、強い顕示欲と歓喜心を形成してしまったのだ。私の文章が掲載されなかった時、内面を見るかわりに、私の心の魔の部分に利用されてしまう程まで、外的原因を見つけようとした。それは私の嫉妬心を拡大することになっった。最後には私は自暴自棄になり、自分が負担すべき任務をも放棄してしまった。

「この世のいかなることもこの大法のためにあって、全ては大法のために起きており、大法のために造成されたのです。」(ワシントンDC国際交流会での説法)と師父は言った。これは大法弟子の様々なタレントをも含む。これらは全て法を正す為に按配されたのである。我々大法弟子は皆異なった特長を持ち、これらの特長を利用することで、一人一人が法を正すことにおいて異なった役を果たしている。我々の責任は自分がやるべきことをしっかりやることである。もしも法を法の側から理解できなければ、邪悪が妨害したり害を与えたりする為に、我々のタレントへの執着を利用するだろう。

私の文章を書く才能は、法を正すことにおいて師父を助ける為のものである。自己顕示の為ではなく、ましてや歓喜心に陶酔する為のものではない。他の人々を正しく理解するのは又法を証明することであり、嫉妬心を肥やす為ではない。ましてや顕示欲や歓喜心への執着を満足できなければ諦めるためのものではない。私の本性は純真で善良であるが、嫉妬心や顕示欲、歓喜心は利己的感情に基づき、後天的に形成された汚いものである。これらは修煉において取除く必要のあるものである。このような利己的な汚いものを、どうして自分の一部と見なすことができようか。

これらの執着を正しい考えで見た時、心の中がとてもリラックスした気分で、丁度殻を脱いだばかりのように感じた。又邪悪の現われを大変はっきりとみることができた。それはいつも我々が自負を感じるところを妨害するよう努める。邪悪は特に我々が自分の才能を常人の感覚で強調する時、その執着を利用し拡大する。私の場合、顕示欲や歓喜心と嫉妬心の執着が、私の書く能力に執着した時に拡大された。

正しい考えに基づく理解は利己的ではない。ところが顕示欲や歓喜心、嫉妬心に基づく理解は利己的で汚い。私はもう自分の文章が掲載されるか否かに執着すべきでない。その代わり、完全に法と衆生の為である、慈悲深く利己的でない理解について書くべきである。特に大法のウエブサイトの為に文章を書く時、一つ一つの言葉や文が異なるタイプの読者にどのような客観的印象又は影響を与えるかはっきりした頭で合理的に思考するべきである。これは様々な修煉状態にある同修や様々な観念を持つ常人を含む。それは又我々を迫害する機会を常に伺っている邪悪をも含む。故意にある特別な読者のグループに焦点を置く時でさえ、我々は全ての人を考慮することに最善を尽すべきである。

2002年7月27日