日本明慧

真相を伝える: 私の法を正すこととの連結


米国大法弟子文(ワシントンDC法会にて)

今日は。フィラデルフィアから來ました。最近高校を卒業したばかりです。修煉を始めて2年になります。この度は法を正す時期の弘法の経験と、過去6ヶ月間に学んだことについて、少しお話したいと思います。

私の高校では卒業する為には、ある種の最終課題を成し遂げることが要求されます。私は大法の迫害についてのドキュメンタリーを作る案を提出しました。私は法を正す時期の学習者としての責任を、このドキュメンタリーが満たしてくれると感じていました。師父は私の為に非常に多くのことをしてくれました。私の心性を高め、本体を変え、膨大な蒼穹を正す、歴史的責任を持つ機会を与えてくれました。今度は私が真に洪大な大法の粒子として自分を扱い、為すべき事を為す時が來ました。

一月末にニューヨークで法会が催されることを知りました。それは私が案を出してから丁度1ヶ月目で、ドキュメンタリー用取材の好機だと感じました。少し困難が予想され、心を正しくもってそれを乗り越えなければならないと感じました。第一に私の両親は学習者ではなく、学習者に一人も会ったことがありませんでした。彼等は自分達が会ったことのない人々と私がニューヨークへ行くことを、許可してくれなければなりませんでした。第二に、法会の最終日は学校のある日でした。第三に私は学校のビデオ装置を必用とし、盗まれたりする危険の大きいニューヨークへ持って行く許可を、得なければなりませんでした。両親に話す時、彼等がどんな返事をするのか確かではありませんでしたが、驚いたことに彼等は完全にこの旅を支持してくれました。学校のビデオ装置を借りに行った時、再び全く問題無くうまく行きました。師父が「転法輪」の中で言いました。「功力が高まると、身体の中で功から広がるエネルギーも力強くなります。それがあまり強くなくても、あなたの場に居る常人を制御できる程です。」私は何となくこの後事がうまく運ぶと感じました。

ニューヨーク法会へ行く日がついに來ました。これは私にとって始めての法会でした。何を期待するべきなのか分かりませんでしたが、ただそれはすばらしいものであろうことは分かっていました。カメラと装置を法会室へ持ち込んだ時、カメラのバッテリーが一日もつかどうか幾らか気になりました。一人の同修が「バッテリーは無くなると思わなければ大丈夫だ。君のエネルギーで働くよ。」というようなことを言いました。その言葉を聞き、私は直ちに心の中の疑いを取除きました。師父は「転法輪」の中で言いました。「善か悪かは人の自発的思いからくるものであり、その瞬間の思いが異なる結末をもたらすことができます。」果たしてバッテリーは問題なく働き、私は法に溶け込むように感じました。まるで師父の按配したビデオ製作に完全に従っているかのようでした。一日目の法会後、天安門広場へ法を証明するために行った、二人の西洋人学習者を会見しました。法会が終了する頃には、役立ちそうな材料をいくらか入手しました。次はビデオの編集をしなければなりません。

学校でビデオの編集を始めた時、絶えず同級生達が眺めていました。私がこのビデオを編集するのを見て、彼等自身迫害の真相を見ることになりました。我々の煉功の平和な姿や、私が会見した人々の落ち着いた態度を見て、真相は篝火のように輝きました。それは丁度師父が言った通り、「法光は普くところを照らし、全ては圓明となる。」(転法輪) 脚本の中で師父の「私の手短な声明」を引用する個所に来ました。アジア系男性の声を用いたく思っていたところ、手伝ってくれる人が見つかりました。丁度中国から来たばかりの人で、今年が米国における一年目でした。彼は英語のせりふの正しい発音を全部、時間をかけて学び、上手に言えるようになりました。中国に居れば、師父の言葉を自由に読み、真相をそう簡単に知ることなど決してなかったでしょう。私は彼が法を得る為に米国へ来たのだと信じます。毎日私はビデオの編集をし、益々大法の荘厳さを人々が見い出していると、感じました。

しかしビデオ製作の過程はつまずき無く捗ったわけではありません。指導教師とこのドキュメンタリーの実際について話していた時、重要な問題点が持ち上がりました。指導教師は、中国政府の大法に対する見解を話さずには、このドキュメンタリーは意味を成さないと考えました。私は完成した作品が少しでも中国政府の側へ動くことを望まなかったし、ほんの少しでも大法に対する悪い見解を入れたくありませんでした。けれど常人は両側(大法側と中国政府側)から、迫害を対照して大法の真相を見た方が良いだろうと感じました。最初私は中国政府を全くひどく見せ、大法を完全にすばらしく見せようと思いましたが、よく考えた後違った結論に達しました。私と同地域に住む学習者が「もしも迫害ついて彼等の偽りを含むなら、君が見せようとしているものは偽りだ。」と言いました。 これは善の法則と矛盾します。私の認識範囲内で、ドキュメンタリーが完全に真善忍と同化していないなら、師父と大法の威信を落とすことになります。最終的には私は中国政府の見解をあまり入れませんでした。ビデオは、世界中の人々が如何に大法を賞賛し、如何に中国政府は迫害において孤立しているかに、焦点を置きました。常人のドキュメンタリーにおいては、主題の両面をはっきり見せることが承諾されますが、大法弘法の為のドキュメンタリーは常人の理に制限されることができません。師父は「随意に用いる」の中で言いました。「宇宙の法が人類の文化によって規範され得るでしょうか? 法理を明白に伝えさえできれば、わたしは人間の文化の紐を解き、それらの規範と束縛を破り、随意に言葉を使用します。大法を明白に表現するために、思うように使います。」

このビデオは私の法を正すこととの連結でした。全ての学習者はこの常人社会で非常に価値ある知識を集めて持っています。我々は化学のみにおいて知識があるのだとか、カメラの使い方だけ知っているとか、思うかもしれませんが、我々は皆この重大な時期に使う能力があると信じます。衆生が自分達を正しい位置に置く助けとなるため、私達は前へ進み出て、学んだ全ての能力を使うべきだと思います。さもなくば私達は何故能力があるのでしょうか。私の見解では、修煉において偶然というものはありません。師父は「真実を証明する」の中で言いました。

「一人の修煉者としては一切の有利な条件を利用して、大法を弘め、大法は正しいもので、本当の科学であり、説教と唯心論ではないことを証明しなければならず、これは全ての修煉者が自分の任務としなければならないことです。この洪大な仏法が無ければ、宇宙のマクロからミクロに至り、更には常人社会の全ての知識を含む一切もありません。」

弘法は、私の修煉の頂点でした。自分の修煉が真っ先ではないと、私はいつも感じていました。師父が指示したこと、例えば、法の勉強をよくする、真相を伝える、そして正念を発することを、私達は修煉においてやらなければならないと私は信じます。それが圓満成就するための一つの事と感じますが、正直なところ、私は自分の圓満成就よりも世の人々を救うことで師父を助けるために、ここへやって来たと感じています。師父は「ニューヨーク法会の皆さんへ」の中で言いました。

「...大法はあなた方に全ての衆生を救済する使命を与えました。歴史的将来において、あなた方の純正な一切が、大穹の形成と存続とを保障しますが、破滅はありません。自分の道をよく歩きなさい。救済された生命は、あなたの衆生となります。成就した一切が圓満のための一切です。」

私達は今新しい宇宙の安定性を保証するために、存在しているのだと思います。そしてこの安定は旧勢力の按配を、正念と正しい行動で打ち破り、世の人々に真相を伝えることによって達成されるのだと思います。自分達の使命を完遂して初めて、私達は一体となって壮大な圓満成就に達することができると信じます。師父は「北米巡回説法」の中で言いました。

「大法弟子の責任は個人の圓満成就にあるのではなく、法を証明しながら衆生を救済することにあります。それは大法弟子の歴史的使命であり、だからこそ大法弟子は本当に偉大なのです。」

私が以上のことを述べたからといって、皆さんが法を証明することを修煉の他の面より優先するべきだと思って欲しくありません。もしも私達が三つの主な責任の中、たった一つに集中し他の二つを怠るなら、私達の弘法の努力は大きく損失を受けると思います。極端は修煉のために決して良くありません。ただ単に、真相を伝えることは私にとって、法の勉強や正念を発することを怠ることなく、力を入れることとなったのです。

同修が法を正すことへの決心を強めることができるよう、私は望みます。このドキュメンタリー作成を経験した後、私は大法が人類世界に大変強く現れていると感じます。正念を発することは比類なく威力のあるものです。しかし、この表面の空間において、大きな変化が起きるとは限りません。「大法弟子の正念は威力のあるものである」を読んだ後、正念を発することだけが邪悪を根絶する有効な能力ではないと、私は感じます。「大法弟子の正念は威力のあるものである」の中で師父は言いました。

「実は全ての大法弟子は能力があるのですが、ただ表面の空間に現れていないので、効能がないと思っています。しかし表面の空間に現れることができるかどうかにかかわらず、真の念が生じる時は威力が強大なのです。わたし達は正法を修煉しており、善良な生命と世の人々を愛護し済度しなければならないので、如何なる事をするにしても善の現れでなければなりません。しかし人を操って人類を破壊している邪悪生命を根絶することも、人類と衆生を守っているのです。大法は広く伝わり、一切の衆生を済度します。」

大法弟子が世の人々を済度する為に真相を伝えることができれば、それは超能力と言えるものと私は考えます。もしも私達が人々を迷いから目覚めさせることができれば、それは超能力と言えます。正念を発することは、邪悪を根絶する為には欠くことのできないことですが、私達は常人社会における自分の能力を軽く見過ぎてはいけません。多くの変化が予定通り進んでおり、全てが他の空間で起こっているわけではないと思います。変化は今ここで起きているのです。

以上は私の限られた認識です。正しくないことがあったり、法に則っていなければ、どうぞ指摘して下さい。

2002年8月11日