日本明慧

容量についての再思考


文/大法弟子 章冬

[明慧ネット]入静できない原因は、心が清浄ではないからです。人間の様々な欲望が多く、様々な執着心が多く、強すぎるからです。様々な欲望と執着は、又たくさんの後天的に形成された観念と思想業力を生み出し、これらは人の大脳を妨害し、人間の思想をなかなか入静させません。ですから、私が理解したのは、自分の悪い思想と思想業力を簡単に取り除くとか排斥することによっては根本的に問題を解決することは出来ないということです。様々なトラブルに淡白であり、様々な欲望を捨て去り、様々な執着心を取り除いてからこそ心が清浄になり、根本的に自分の思想が本当に清浄無為になります。さもなければ、執着心を取り除かず、欲望が多すぎると、又新しい思想業力と悪い考えが生み出されます。

二日くらい体験したことがありますが、人間の全ての執着心は「我(わたし)」(感覚的言えば「我」という字から生じたと言う方が「私(し)」という字よりもっと適当です)という字から生まれ、真に無私無我に達すると、いかなる問題にも自分の心が動かされず、どんなできごとも寛容でき、どんな問題でも相手のことを先に考えられます。それは本当に思惟がはっきりし、思想が清浄で、身体も清爽で無私無我のふわりと漂った自由自在な感覚であり、まさに高尚な生命としての快楽感と幸福感でした。

修煉の中で、絶えず執着心を取り除く過程は、絶えず「我」を突破する過程でもあり、自分の容量を絶えず相対的に拡大する過程でもあります。異なる次元にいる生命は異なる次元での執着がありますから、異なる次元での静かさがあります。ある意味で厳格に言えば、執着は相対的なものに過ぎず、静かさも相対的なものです。ある生命の心性が高ければ高いほど、その容量も大きく、その智恵も大きく、その能力も大きく、その考えることも大きく、することも大きく、その次元も高く、同時にその生命を構成する要素もミクロになり、しかもその思想も静かです。異なる次元にいる生命或いは異なる宇宙範囲内の生命には異なる生存の楽しみがあり、思惟方式と思惟方法も異なります。

修煉の過程において、出来れば自我を一遍に取り除き、自我を一遍に突破するのが良いですが、しばしば出来ず、ただ自我を絶えず突破し、絶えず拡大することしかできません。つまり自分の容量を絶えず拡大することです。修煉には近道はありません。