日本明慧

闘争心の自分の修煉に対する影響に注意しましょう

文/陸南

【明慧ネット】最近、海外の一部の地区で起こった一連の邪悪による迫害事件に関して、一部の大法学習員や一般の人々も「これらの事件の発生は理屈に合わず、考えられない」と思っているようです。しかし、なぜこのような事件が起こっていたのかについて、我々は真剣に考える必要があるのではないかと思います。師父はこのような教えをくださいました「自然というものは存在しない、必然というものには原因があるはずだ」。一部の大法弟子は、法理から見てこれが邪悪による迫害であることを分かっていますが、なぜ当事者達に対してこのような迫害をされていたのかに関しては、まだ充分理解できておらず、後になって、大法法理に基づいて真剣に考えると、この事情の裏に二つの原因があることを悟りました。一つは邪悪に隙間に乗じられて、頑として迫害されたことです。もう一つは関係者或いはこの事件を聞いた学習者の心性に向上する必要なところもあることです。
 
かつて修煉者たちは異なる法門の間でお互いに手を出すのは良くないことであるとはっきり分かっていたにもかかわらず、現在旧勢力が我々大法弟子に強制に所謂「試練」を与えて、本当に道理をわきまえなくなっています。しかし、これとは別に、我々修煉者たちはまず自分自身に向けて原因を探し、自分自身のことを修正しさなければならないと思います。(一つは正信正念を固めて、やるべきである法を正すことを良くやること。もう一つは自分の言行を絶えず改善し旧勢力に我々のことに手を出す口実を与えないこと。)旧勢力の中の頑として法を正すことを破壊しようとする者は、自分自身のやったことに対して責任を負わなければならないと思っております。
 
学習者個人の向上の問題に関しては、当事者達と事件を聞いた人達の双方が考えるべきだと思います。当事者達は、自分にどんな隙間があることで邪悪に乗じられたのか、どうすれば一層良く出来るかなどについて、大局を念頭において自分自身の心性から問題を探すことが、これから難に立ち向かい修煉することにおける重要な問題であるでしょう。一方、この事件を聞いた人達は、たとえ当事者が完璧に対応できなかったとしても、文句を言わずに、全力で支持して出来るだけ上手くやり遂げさせることができるかどうか、大局を念頭において自分自身の内に向けて問題を探すことが、これからの修煉では真剣に考慮するべきであろう。
 
ここでは、主に当事者達を対象として自分の見解を述べます。少し前ちょうど機会があって、ついでにこの事件の始末に関して調べました。結果として、勿論外部の原因として旧勢力による強制的な邪魔がありますが、内部の原因としては個別の当事者には理性が欠けて闘争心或いは歓喜心があり、結局邪悪がこれらの学習者が抱いている執着心を磨り減らすことを口実としてこれらの事件を起こすに至るわけです。従って、この空間において、旧勢力の観点からみてある程度「理屈に合う」ようにこれらの事件が発生したわけです。これらの事件から私は次のようなことを認識できました。もし平素から心性の修煉が足りなかったら、世間の人々に真相を知らせる際に突然トラブル又は誹謗に遭遇した時に、しばしば慈悲心の不足が指摘されるのです。これは我々の大法修煉で注意するべきところです。具体的にどうすれば良いかについては、私たち学習者は心を静めて各自の内心から探せば分かるはずだと思います。我々自分自身の執着が邪悪に利用されて迫害をされているのではないかと考えてみましょう。
 
勿論、前提は、旧勢力の按配を我々は承認しないということです。そうでなければ彼らの基準に従うことになり新宇宙で認められなくなることになります。その前提の上で、我々は大法を基準にしてできるだけ自分自身の心性から問題を探して、邪悪に迫害の口実を与えないことにがんばらなければならないと思います。

以上は私個人の見解で、不妥当なところがあるかもしれませんが、同修達の交流に参考できればと思っております。