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私が労動教養所で受けた迫害の経歴

[明慧ネット]2002年9月21日 文/大陸の大法弟子

2001年1月1日に私は首都へ陳情に行って天安門広場で連行されました。その後北京市城区の留置場に監禁されて、数日間は暖房の無い部屋に閉じ込められました。その時の気温はとても寒かったのですが、同じ部屋に監禁されている9人全員が大法弟子でした。

公安の人は私達に三つの敷き布団しかくれなかったので、私達10人はこの三つの敷き布団に頼って温もりを取るしか有りませんでした。彼らは又わざと私達を凍えさせるために窓をあけておきました。私を審判する時に公安は電気棒で私を感電させたり殴ったりしながら私に何処から来たのかを聞きましたが、その時私は他の人を巻き添えにしたく無かったので、自分の住所を言いませんでした。当時私達は連行されたことに抗議するために絶食を行いました。2日後に私たちは部屋を換えることになりました。部屋を換える際に廊下を通るのですが、その時私たちは両手で頭を抱えて歩くように命じられたのですが、私は彼らの言うことを無視しましたので、数人の公安が電気棒で私を感電させたり、警棒でめった打ちしました。私は殴られて自由に動けなくなり、横になるのも立つのもきつかったです。それから2日後、私たち10人はそれぞれ分けられて、私は一人である部屋に入れられました。私が公安からの区別服を着るようにという指示を断ったら、又彼らに電気棒で感電させられました。同室の犯人たちは私に住所を言うように強いたり、絶食するのを邪魔したり、生水をかけたり、唐辛子の水を注いだり、寝させなかったりしていました。囚人達は私に「私達もこのようにしたくないのですが、公安が私達に強いているので仕方がない」と言いました。

1月6日私が絶食して6日目、公安は私に食事を強いたり、電気針で刺したりしていましたが、私は食事を取らなかったので、公安は私に潅食をしました。同室の囚人は私が絶食することによって自分達に圧力がかかって来ると言っているので、彼達のために食事を取ることにしました。ある囚人は、「貴方が此処に来たばかりの時に、公安に貴方に三日間は痛めつづけろと言われた。」と言いました。
 私の身体にある警棒で殴られた傷を見て、彼達は2日間は私を動かせなかったです。2日後公安は又私に住所を言うように強いたのです。その時、同室の囚人はもう公安の言うことを聞かないで、陰で私を助けてくれました。

1月11日に私が再審判される日に、先ず公安はドアと窓を開けて私を凍えさせてから、「恥知らずなあなた達が陳情に行くことは北京のオリンピック申請に影響を与えた」ということで、北京人民の代わりに貴方を殴ってやると言いながら私の顔を手で殴ったり、警棒で殴ったりしました。殴られた後に私は別の処に入れられ、またそこの囚人達に殴られたり蹴られたりしました。囚人達は順番に私をめった殴りました。私は「法輪大法は良い」と叫びました。公安はそれを聞いて警棒でめった打ちにしたので私は意識を失いました。それ以来私は歩けなくなりました。座ったら立ち上がれなく、立ったら座れなくなりました。横になっても身体を動かすことが出来なくなりました。

1月17日私が住んでいる所の公安と、私の職場の幹部が迎えに来ました。その幹部は、貴方を取り戻すために数多くのお金を払ったと言いました。(職場と家族がそれぞれ人民元五千元を出したそうですが、お金は強制的に供出させられたそうです)。1月18日私は延吉市に戻りました。先ず留置所に15日間拘留されました、この15日間公安と同室の人は私に法輪功を放棄するように強いました。私は彼達に法輪功の良いところを話しました。ある朝鮮族の老人は私に「以前、私は法輪功に関するテレビの報道を信じましたが、今あなたの身にある傷を見てその報道を信じなくなりました。」と言いました。

2月1日に私は拘置所に閉じ込められて、同室の囚人によって3日間連続眠らせない刑罰を受けました。私が公安に言うと彼らは構わないと言っていました。ある公安は圧力がないと動力がないからと言っていました。私が法輪大法は良いと叫ぶ時に公安は皆来ていました。

2月19日に彼らは私を労動教養所に閉じ込めました。

そこで彼らは私達の大法の弟子に強制的に重労働をさせたり、法輪功を中傷する偽資料を学ぶように強いたり、法輪功を放棄するように強いたりしていました。彼らは私達を長い時間座らせて、少しでも動くと、罵りながら殴っていました。彼らは又私の身内を呼んで、私に法輪功を放棄させようとしたが、私の心は全然動揺しなかったのです。科長の李文斌は怒り出して私には人間らしさが無いと言いながら、スリッパで私の顔を殴ったので、打ち破れた口から血が出て来ました。

ある日、私達が作業をする時に、大雨で全身がびっしょり濡れました。下水道の水溜りを整理する作業でした。昼食事の時に手も洗わせなかったし、食事後も休ませなかったのです。彼らは私たちを手洗い所に座らせたですが、私達が余りも寒いと言ったので、班長に怒られました。その後、李文斌科長がやってきてある大法弟子を殴り出しました。私はすぐ教育科の課長に「課長は平気で人を殴ることが出来るのですか?」と聞きました。 李文斌は私達3人を監禁室に閉じ込めました。その後、私達を外に出して長時間座らせて一寸も動かせませんでした。

長時間の座り込み処罰を受けると、少しでも動くことが許されないので、多くの人の臀部は壊れていました。その時私の臀部も壊れて、座ると針に刺されているような痛みを感じるので、私が姿勢を替えって座りたいと班長に求めても全然許してくれなかったのです。ある日、私は座れ無くなったので、班長に罰されて立たれましたが、半日経ってから気絶しました。李文斌は私の臀部の傷を見て、私に地上に座れと言ったのですが、座布団は許してくれませんでした。このように長い時間が経っても、私が法輪功を放棄していなかったので、彼らは毎月私達に座り込み時間を延長して、最も長い時には1ヶ月に20日間にも及びました。

12月19日に私達は吉林省九台の労動教養所に転送されました。九台の労動教養所の中で彼らは私達に強制労働をさせましたが、他の人との会話は一切許されませんでしたし、殴られたり、罵られたりの毎日でした。ある日、テレビのニュースを見ていた私が、報道内容が全て嘘だと言ったら、(ニュースの中の内容は嘘と中傷することばかりでした)大隊長の唐文波と幹事の劉夕多、隊長の趙奉山など5人が交代で電気棒と靴で私の顔を殴り続けました。彼らは、今は法輪功に厳しく打撃を加えると言いながら、ほとんどの人を殴り出しました。信仰を放棄しないと電気棒と靴で顔を殴られていました。趙奉山は、貴方達に対し開廷して、号泣させるからと言いながら
「五書」を書くことのみ妥協するように強いていました。ある日、彼らは私達の大法弟子に洗脳資料を強制的に読ませようとしたが、私は協力しなかったので、唐文波の靴底に顔を強く打たれました。

2002年4月1日は私の非法労教期間の満期になりますが、労動教養所は2ヶ月間も延長して、2002年6月11日にやっと釈放しました。

私が不法に拘禁された時に終始持っていた信念は、「私は先生の済度を助けて、大法を守り、大法を実証したい。私は大法の1粒子として決して大法に泥を塗ることはできない」との思いでした。

 (2002年法輪大法アジア国際法会での発言の原稿)