日本明慧

私の所見“私心”

【明慧ネット】たまに自分の“私心”に気づく。自分の執着心の一つなので取り除きたいが、しかし、著しい効果がなかった。他人の“私心”を感じると、やはりそれは私心だ。自分は見分けることが出来て、幸いだと思った。

《転法輪》を読むと、第一講で師父はおっしゃった。“真・善・忍という特性を持った宇宙空間は本源的に善良なものであり、人間も生まれた時は、宇宙と同じ特性を持っています。しかし、生命体が多くなると、その集団に社会的な関係ができてきます。その中の一部の人が、利己的になっていったために、次第に自分の次元を下げ、ついに自分のいる次元にいられなくなり、それより低い次元へ堕ちていきました。ところが、つぎの次元においても、まただんだん悪くなり、そこにもいられなくなって、下へ下へと堕ち、最後には人類という次元まで堕ちてきたわけです。人類社会全体は、同じ次元にあります。ここまで堕ちてしまったら、功能の角度から見ても、あるいは大覚者の立場から見ても、これらの生命体は本来消滅されるべきものでした。しかし、大覚者たちがその慈悲心により、彼らにもう一度機会を与えたので、このような特殊な環境、特殊な空間ができあがったわけです。”
 
以前この部分を読むと悲しい気持ちになった。実際、自分の私心は意識をしていなかった。心の底から切なる気持ちで“私心”を取り除けなかった。ある日、私心の深刻さが分った。
私が悟ったのは、旧宇宙が法から離れる中で、上から下へと私心を貫いた。だんだんひどくなって、生命は気づかず、旧宇宙は解体に至った。高次元から見ると、旧勢力は“私を手伝っていると同時に、それらは自分を守るという私心を隠しており、みな他人を変えようとしていますが、自分を変えたくありません。皆自分に触れたくなく、ひいては自分が執着して放さないものを最大限に守っています。全過程で、それらが多くの非常に良くないことをしました。その中の一部はそれらがわざとやったのですが、それが悪いことであるとそれら自身が認識できなかったこともあります。”(北米での巡回講法)

普段の修煉の表れは、外に向かって求め、他人の不足を見るばかりで、他人が変わるのを待ち、自分の内に探さず、積極的に自分を変えようともしなかった。煉功も精進しなかったし、“法が人を煉る、功が人を煉る”を求め、怠けて煉功しようとしなかった。

師父は第九講で“清浄心”について、次のようにおっしゃった。“何かの手段や方法によって入静しようとすれば、わたしに言わせれば、それは外に向かって求めることになります。そうすれば煉功はかえって間違った方向へ行き、邪道に入ってしまい、外に向かって求めるということになるのです。特に佛教では、外に向かって求めれば、魔道に入ると言われます。”

私心ということは、今日の人類を見ると、ひたすら利益と物欲を求め、個人の利益とか集団の利益などのために良心までも売る。私の考えは、人類の欲望は私心から生じ、末法の時代に欲望が氾濫しており、各種の魔が満ちている。そのため、この空間に災害と災?は絶えない。
 
私心が宇宙の特性を離れ、私心の持っている物質を淘汰しなければならない。もし、宇宙の最高層が私心を持ったまま気づかなければ、宇宙はどうなるだろうか?そう考えると、すぐ自分に厳しく要求し心の底から正しい念が生じた。
 
“悪事を働いている人に、それは悪事だよと注意してあげても、信じない人がいます。彼は本当に自分が悪いことをしているとは信じません。”(《転法輪》)以前は自分の意識が麻痺していた。自分自身がそんな私心を持つとは信じていなかった。心の奥には、気づきにくい偶然を期待する心が私心を保留したかった。世の中でよい生活をしたかった。これは本当に自分の旧勢力の影であった。しかも、私の空間で邪悪が存在する理由だ。
 
師父が教えてくれるのは、真・善・忍に基づく宇宙大法であった。私の私心は少しでも保留する理由がないだろう?私心を取り除ければ、旧勢力の配置から離れ、法を正す邪魔をする旧勢力もを取り除ける。