日本明慧

大学生の修煉の物語

〔明慧ネット〕文/笑迎風雪

私は大法弟子です。95年、16歳の時大法に恵まれました。お父さんの影響を受けて小さいときから気功に興味がありまして、奇妙な物語が好きでした。私が高校2年の時.お父さんとお母さんが法輪功の話をしているのを聞いて、法を得ることが出来ました。当時私はただ法輪大法は良いと思って、毎日「転法輪」を読みました。読まなければ何か足りない感じがしていました。法を得る前のある日、私は夢を見ました。夢の中で私は先生に会いました。先生は私をある学校に連れて行きました。私は子供のように先生の胸の中にいました。先生は帰るときに私に学校で良く勉強をしなさい、学校が引ける時迎えに来るからと言いました。それから数年後私はやっとその時のことが分かるようになりました。それは先生の慈悲の教化でした。

当時家族は大法を信じませんでした。だから私が大法を学ぶことには賛成しませんでした。ある日家で大法を読んでいる時に、お母さんに見られて、本を引き裂かれました。私が法を得たその日から家の人はずっと反対していました。当時私は十代ですが、自分も知らない執着心が多くて、又よくない習慣も多かったのです。若者は、いつも未来の前途を重んじ、感情を重く見ています。当時の私は、どんなことが有るにも関わらす、決して法輪功は放棄しないと思っていました。でもあれらの執着心は私を邪魔していましたが絶えきれず、大法を学んでいく間に執着心は段々薄くなりました。99年の悲しい時期に、いつもテレビで不公平な報道を耳にする時、私の心は何時も哀しくなりました。その時家の圧力はもっと大きくなって来ました。それから私の身の周りの修煉者達とも連絡が取れなくなりました。

大学生になってから私はサーバを使うことをマスターして「明慧ネット」でダウンロードが出来るようになりまして、先生の多くの経文を読むことが出来ました。私は読みながらずっと涙を流しました。本当にどうしたらよいか分からない子供が家長の声を耳にしたようでした。

それから、私はネットワークに入る方法を身辺の同修者達に伝えて、学校の周りに大法真相資料を置いて、学生達に真相の説明をしていました。彼達の目には、私は人にうらやましがられる男子学生でした。彼らは大法と私に対して理解してくれました。幼いときから私は何をしても後悔したことが有りません。でも大法修煉の道で私は常に私がもっとよくなったら大法に対する誤解が少なくなって、損失が減っているのではないかと思っていました。大法の弟子として、大法の一粒として、生命の全部は大法のために造られているのではないでしょうか!それなのに法に従わない理由も先生を信じない理由も無いと思います。私は常に先生のお話を思い出します。「忍び難きは忍びうる。行い難きも行ないうる」。大法弟子は法の中に溶けていかなければならないのです。

2002年4月、私と同修者は北京に正法に行きました。7時間汽車に乗って朝北京に着いた時には天気は曇で小雨が降っていました。私達が傘を買って駅を出た時に雨は止みました。天安門広場に着いた時には8時過ぎていました。私たちは正念を発しなから広場を何回も回りました。これは私服警官と武装警察の注意を引きました。9時になった時には人々は多くなりました。私達は旅行団に混じって金水橋のあちらへ行って、金水橋前の地下道を歩く時、私達は旗を開けて、「法輪大法は良い、法輪大法は正法だ」と地下道を出ていくまで叫び続けました。私達はこんな事を終えてから何か足りないと感じました。1時間過ぎた頃北京は砂埃が吹き荒れて10メートル以上は見えなくなりました。本当は午後もう一回行くつもりでしたが止めて次回にすることにしました。行き帰りは順調でした。それは先生の慈悲のお蔭です。でも私は何時も何か足りないと思っています。

現在、家の環境も私の真相の説明でよくなりました。人は本当に可哀相です。彼らがどのように私達に相対しても、私達は恨みを抱くことはできません。まったく恨みを抱いていないのです。かえって彼らに真相をわからせて仏法を受け入れさせたいです。同修者は私に、私達大法弟子は一緒にいると和やかで良い感じがするけれども、それは修煉人は何が有っても自ら探しているからお互いに理解しているし人を先に考えるから一緒に何をしても良く出来ると言いました。

ある日私は夢で先生に会いました。私はずっと起きるまで泣きました。先生は慈悲です。先生が私たちにくれたものは本当に多いです。だから私は棄てられない良くないものは無いと思っています。此処まで書いて私は先生の経文を思い出しました。

正神

正しい念正しい行い
精進して止まない
法を乱す鬼を根絶し
衆生に善をもって接する 

2002年5月30日

私達は共に向上していきましょう、千万年もめったに逢えない機縁を大切にしましょう。 
(個人体験)