日本明慧

慈しみと正念をもって修煉することについての私の個人的な理解

【明慧ネット】

カナダの大法修煉者

二つのことに関する私の個人的な理解を皆さんにお話ししたいと思います。始めに善をもって修煉することについてです。

私は善は他に人々を良く待遇することだけではないと思います。他の人々を理解し他の人々の過ちを許すことも含まれていると思います。

今では、私は自分の子供を待遇することに関してより深く理解するようになりました。私はかつて特定の感情に執着していたので自分の子供にとても厳しくしていました。息子のどんな小さな過ちも許しませんでした。けれども、息子は過ちを直すどころか益々問題を起こし続けました。 後で、数回息子が間違いを起こした際にすぐに非難しないようになりました。そのかわり、何が息子の間違いを引き起こしたのかを充分に分析して息子が問題を解決するように助けました。 一度は同じ問題が3回起きました。自分の子供を教育するのは私の責任なので、私のいつもの態度とは違って息子にひとつづつ真剣に話しました。 私は息子に「おかあさんは、あなたに自分の意志でいい人になってほしいのですぐには指摘しなかった。」と話しました。

息子の目には涙が浮かびました。私は息子の学校の先生から讃辞の手紙をもらいました。私の善の心が息子を良くしたのだと思います。

私達は修煉者達間で善を修養しなければなりません。 李先生はこのことについて何回も教えられました。ある修煉者が自分の地域に戻ってから私の地域であった修煉者は皆とてもいい人だと言ったのでとても感動しました。

本当は外界はそんなに変わっていないと思います。今彼女の心が善で満たされているからかもしれないのです。

李先生はおっしゃいました。「彼女達は全ての生物に対する偉大な忍と善の状態で全てのことを親切に理解できます。人間の言葉でいえば、彼等はいつも他の人々を理解できます。」(「ボストン2002大法教授」)と。