日本明慧

法会のために体験交流文章を書く体得

文/アメリカ弟子

[明慧ネット]法会の主催者に発表する文章を書くように頼まれました。自分にはある程度体験はあるとは知っていますが、心から抵抗感が生じ、書きたくないのでした。「大法の他の仕事があまりにも忙しい」と「私は良く修煉出来てない」を最大の口実としていました。現在は草稿を書き終りましたが、振り返って見ると次のようないくつの感想があります。

文章を書くこと自体が向上する過程で、法理上で更に昇華する過程です。難関を越えてから、いつも問題を徹底的に考えたわけではありません。法理上ではっきりしてない認識があり、特に毎日大法の仕事が非常に忙しい情況で未解決のままに「ごまかして過ごす」ことがおこり易いのです。文章を書くことによって、自分の修煉を再び振り返って見ることや落ち着いて問題を深く、徹底に考えることが出来ます。

「文章を書きたくない」という気持ちの裏にはたくさんの私心があります。「私は良く修煉出来てない」と言うのは、自分が確かに良く修煉出来てない面があれば、言い逃れようとすることもあります。もっと主要なのは自分の認識が高くないため人に嘲笑されるのをいやがるからです。特に自分が古い学習者であるからなおさらです。しかし、文章を書くことによってこの「体面にこだわる」名誉を求める心を突破することが出来ます。実は文章を書きながら、「ほら、わたしはこの問題についての認識はけっこ良いよね、他人が聞いたら私を良く修煉出来たと思ってくれるかも知れない。」このような考え方は認識されるとすぐ取り除くことが出来ます。もし落ち着いて書かなければ、このような機会はありません。

皆が法会に参加したがり、皆が他人の体験から利益を得たがっています。他人が書いたら私は聞き、自分は貢献したくない、この自身も「私」が含まれていることを反映しています。

法会が成功するか否かの最も重要なのは文章の内容ですが、ある程度の数の文章がなければ、優秀な文章を選ぶのが難いです。皆が文章を書きたくないなら、法会を開くことは出来ません。私はいつも自分の様々な私心から問題を考えれば、私がこの問題について「法を大にする」とは言い難いです。

他の人は皆ただ一回行くだけであり、法会に出席するだけですが、一番配慮するのは法会の主催者です。彼らが一番期待しているのは皆が奮って文章を書くことです。文章を頼む電話まで来たのにどうしても言い逃れようと口実を言うのは、真に他人のことを考えていません。