日本明慧

二言三言:修煉中での幾つかの悟り

2002年11月15日 文/大法弟子

【明慧ネット】

(一) 人に対してではなく、事に対して全面的に評価する

一つの事をうまく成し遂げた時、それはこの人の修煉状態ととても関わりがあるけれど、この人がどのぐらい修煉がよく出来ているとかは別です。同じく、一つのことをうまく成し遂げられないとき、それはこの人の修煉が良くできてないと結論を出す理由になりません。一人の人に対して評価するときは全面的に評価すべきです。

私達がある事に対してどう改善するかを議論するとき、もし、心の中で、相手がどうこうとか、更に憤りのために心が穏やかでないと、それはその時私達の心が常人の中に落ちてしまったのを説明しています。

(二) 御互いに尊重する

神は、悟った法理と次元にどのぐらいの差があっても、御互いに尊重しあいます。修煉者として、私達が本当に尊重の態度で同修に対するとき、自己の観念、機嫌、私心に限られずに、どんなことでも真に善の心で相手のために考え、相手の考え方にどんな長所があるか、更に往々同修達の法に対する堅い心、法のために、衆生のために責任を負う、その心に感動され、自分の足りない部分を探し、互いに促進、共同に向上する効果に至ります。

(三) 何も求めない状態で同修と交流する

旧勢力はいつも他人を変えさせ、自分が変わるのは拒否します。もし、私達が交流するとき、いつも他人を説得するというのは、そのこと自体目的が純粋ではなく、自分を修めてないし、交流効果が大きく下がります。

(四) 縁と執着

修煉者が一緒に仕事をすることは縁がとても深いのを意味しますし、そして一つの偉大な縁でもあります。当然共同に無くすべき心があります。そしたらどうして私達はこの環境を利用して、執着を捨てられないですか?ほんの少しの「私心」を持っていても天には戻れないのです!

(五) 話しぶりと善のこころ

師父はおっしゃいました。「善は大覚者達の基本的な本性でもあります」(「善を説く」)修煉者が善の心で他人を対するとき、その話しぶりも温和で善良でありますし(偶に表面的には厳しく要求されるときも、心の中は焦って動き回らないし、平静ですし、純粋に相手のために考えます)、目色から自然に親切が現れ、話をすると相手の心にあるわだかまり、或いは敵意さえ溶けますし、相手がその時賛同しないとしても反感はありません。それとは逆に、全てが善の心から出たのではなく、個人の機嫌が混じってる場合、外来の手段で相手が自分の意見を受け入れるようにしようと思うと、表面的には語っているものが道理があっても、人に受け入れ難いです。