日本明慧

先生の恩を感じる: ある西洋人弟子の修煉の道

文/アイルランドの大法弟子

【明慧ネット】私は私の法を正す中での修煉に対して交流をしたいと思います。私の物語が人心を奮い立たせることを望みます。これは私達の偉大なる法輪大法の威力の体現です。

私は一人の師匠を探したい

私が初めて修煉に接触した17歳の時、家で1冊のヨガの本を見つけました。修煉と瞑想のところまで読んだとき、私はたいへん興味を持ち、従いましてたくさんの努力をしました。私は俗っぽい世の事に対して興味を持たないようになりました。友達は私がたまには他の空間にいると冗談を言い、それに「Q空間」という名前を付けました。私の名字の略語なのです。

しかし、私がいくら修煉の努力を加えても、同一段階の中にいて、本当に自分を高めることはできませんでした。私は太極拳とその他の体系の練習をし始め、一冊又一冊と超能力現象の本とその他、私の知りたい事情の本を次々と読みました。しかし、これらの事についての適切な説明は誰にも出来ず、遠回りで避けるような解釈ばかりでした。 

「転法輪」の中で先生の言ったように「高レベルの法がなければ修煉することが出来ない」のです。どのような試みにも関わらず、私は修煉の中では一人の小学生に過ぎませんでした。

その時、私は教えてもらえる師匠を探し、しかも、インドの洞穴で1年くらい修煉しに行きたいと思いました。
同時に、私は多くの悪い社会現象を見ました。どうして人間は個人の利益のために互いに争い合うのか私は可笑しく思っていました。「世の中がこのように進んだら、未来はどのようであるだろうか?」と私は思いました。
ある晩、私は散歩に出掛け、星の群れを見上げ、自分に言いました。「私はほかの人と同じようにはなりたくない。私はいかなる悪い事もしたくない。只、良い人間になって、しかも、この世界がもっともっと良い場所になれるように助けてあげたい。」

その時、私は突然一つの星が動き始めているのをみました。しかも、ますます明るくなり、私に向かって来ました。私は自分が空想していると思いました。あの星はまるで天空中の巨大な発光体みたいに音一つなくそっと空気から滑りぬけていました。それは、1台の飛行機あるいはヘリコプターではなく、もちろん「自然現象」でもありませんでした。その星は私にどんどん近付き、最後、私は恐れて逃げてしまいました。

後になって大法弟子にこの話をしました。私は自分の仏性がその瞬間現れたと信じています。私は修煉を望んでいます。これは先生の「転法輪」の第二講でお話したように「人が修煉の道を歩みたいと思ったその瞬間、その思いは黄金にぱっと光り輝いて、十方世界を揺るがす」のです。

大法は私に再び楽しみと生活意義を獲得するようにしました

大学で私はコンピュータを専門に勉強していました。早い時から私はいつもコンピュータに対して興味を持っていました。今、私は、これは師匠の早い前からの私のための配置であり、その後の法を正すことに使用するようにしたのです。

しかし、学院の中で私は自分が常人の染物甕に落ち込んでいるように感じました。私は他の人と同様に汚い生活を送っていました。気持ちの消沈や、生活に対する不満もありました。
このように恐らく3年の時間が経ち、学院での最後の残り1年の時、私は再び良い人間になりたいと思い、修煉を決意しました。

この時、私は大学で一枚のポスターを見掛けました。法輪大法の宇宙の掟に基づいた「真、善、忍」の高レベルの気功でありました。人はこれを聞くだけで興味を持つと思いますが、いったい誰が「真、善、忍」が宇宙の掟であると言えるのでしょう。私は自ら超自然的な事を非常に多く知っていると思っていましたが、今までこれと同じことを耳にしたことがありませんでした。でも、私は法輪大法学習に行き、勉強しました。

良い感じでした。練功の時私は心地よく、穏やかな感じでした。私は「法輪功」を読みました。

当時「論語」の中の第一句は私の多くの観念に挑戦的でした。「仏法」は最も深く通暁し、それは世界のすべての学説中で最も奥深く、超常の科学なのです。

私は自分に言聞かせました。「私の練習したその他の系統は何だったのか?」しかるに、私は開放的な頭で読み続けることを決意しました。私はとても意義があると感じたが、本当にはわかりませんでした。

当時、私の中の多くの観念が、法の中の更に深い内包が見えないように私を阻害していました。数週間後、私は練功をやめ、また一人の常人状態に戻りました。数ヶ月後、私は彼女と別れ、とても落ち込んでいました。

このように二年が過ぎました。2001年5月に至って、一人の友達が気功で私の落ち込みを治療してやると提案しました。私は2年前にかつて参加したことのある法輪功を覚えていました。

第1次集団勉強会の時のことです。「アメリカでの法輪仏法の講法」まで読み着いたとき、私は頭が開けられたような感じでした。

李師匠の洞察力と法の威力は私の落ち込みの深層を刺し破りました。師匠が空間とその他の現象を講じる時、私はすぐに受け入れることができて、そして、非常に夢中にさせられると感じました。

この時、私はすでに人的観念の障害がなくなり、本当に「仏法は最も深く通暁している!」と信じました。わずかの2,3時間で私は長年に得たもの以上のものを勝ち取りました。

私は大法がこんなに大きな威力があって、私に再び楽しい生活と喜びを得させるとは思ってもいませんでした。
私は大法に恩返ししたいと思っています。なぜなら、私は再び命を救われ、新しい生命を与えられたからであります。

真相を伝え、法を正し、真剣に法を学ぶ

2日後に、私はダブリンの修煉者達と一緒に真相を伝え、法を正しに行きました。法に対する迫害の資料を読み終え、私はほとんどあれらのことが中国での修煉者の身に発生し、彼らが受けている大変な苦痛など信じることができませんでした。

私は邪悪を暴露し、人々に法輪功の良さを伝えたいと思いました。私の第一の任務は国家テレビ局番組の撮影などの仕事歩調に合わせ、ダブリンの修煉者達と一緒に法輪功の実演をすることでした。私はまだ功法を学び尽くしていないがテレビを通じ、師匠を助けて法を正すことはできるのです!

およそ1週間後、私は他の修煉者達と一緒にダブリンの最も多忙な商店街通りに行き、真相を伝え、法を正しました。2,3週前は恐れと力不足で、私は大通りに出ることさえが非常に難しく困難であったが、今は自信を持って完全に知らない人の前でも話すことが出来、首都の中心で真相を伝え、法を正すことが出来たのです。これは執着心を切り捨てられる一つのいい方法であると私は思います。たとえば、自分のメンツと周りの人々がどう思うかなどであります。

私は「転法輪」を読み始めるとやめることができません。短い時間の中で、私は多くの師匠の本を読みました。絶えず法の勉強で、私はどんどん良くなりつつあると感じました。多くの事は私にとって突然はっきりとわかるようになり、生活の中でかつて考えた問題などの解答も得えられました。これは私の一生をかけて探していたものであります。

私は自分に対し言います。「このような高レベルの師匠を誰が見ることができるのだろう?誰が、彼が言ったような内容と数え切れない段階の中の仏陀、道、神の師匠なのか?誰が私の一生考えている問題を幾つかのわずかな文字で解釈できる師匠なのか?」

しばらくして私は「主仏の慈悲は膨大であり、すでに仏法を人々に残した」とわかりました。(「人類を生まれ変わらせる」)自分がこんなに幸運であり、こんなに神聖で貴重なものを得られるとは思ってもいませんでした。

とても奇異ないくつかの珍しい体験

私にはいくつかのとても珍しい体験が出始めました。私は一つの夢を見ました。夢の中で師匠は私の体の中に一つの法輪を付けてくれました。

私は功法のビデオを見る時、一つの紫色の星の環が師匠の周囲を回っているのを見ることができます。私は功法のビデオを見る時、明るい光と師匠の功力がテレビから部屋中に流れ出しているのを見ることができます。私は練功している時、エネルギーが回転すると手が自分で揺らめいているように感じます。ある日、私は一人の同修者と話し合っている時、一つの白色の星の環が彼をめぐっているのをみました。これらの奇異な事を経験して、私は自分が夢を見ているように思われ、誰かが私を呼び覚ますのを待っているかのようでした。

1ヶ月後、エーテボリへ行き、初めて法会に参加しました。そこで私は世界各地の修煉者達と出会い、まるで本当の自分の家にもどったような気分でした。ある日、私達が練功している時、一つの大きい太陽の環が天空に現れました。私は驚いて見上げるとこれまで見たことのない、一つの大きな虹が太陽の周囲をめぐっており、まるで違う他の空間に入る一つの扉のようでした。何も見えませんでしたが、しかし私は多くの仏陀、道、神が私達を見ているように感じました。彼らは私達と私達の法を正すことを喜んでいるのです。

これは師匠のお話し通り、「宇宙の中には計り知れない仏陀、道、神と更に巨大な天体の中の生命はこの小さな一粒の塵埃の宇宙の全てを見守っている」のです。(「円満に向かって」)一つの大きな行進の後、修煉者達は記者会見を開き、真相を伝えました。私は数え切れない神が法を守り、私達を見守っていると感じました。2002年7月、私は光栄にもワシントンDC法会で師匠の演説を耳にしました。法を語っている時の師匠の目には涙があふれていました。私は私がこんなに幸運であることを信じられません。師匠に会え、師匠の体から湧き出ている法輪と師匠の前を輝きながら回転している法輪を見ることができたことを。

円満にたいする執着を取り除き、法を正すことの中に溶け込む

あるすばらしい体験を通じて私は師匠と一緒に法を正す意志がもっと固くなりました。私は大法ネットから仕事の招きを受けました。これは法を正す中での私のもっとも主要な仕事であります。師匠はヨーロッパ円明ネットへの文章の中で「これは真相を伝えるために、邪悪な迫害を暴き出すために、世間の人々を済度するために作ったものである。同時に民衆の中でのメディアの作用に注意しなければならない。これは人々に大法の真相を理解してもらい、世間の人を救い、邪悪を暴き出すのにきわめて重要であり、その影響も巨大なのだ。」と話しました。

私は同修者達を励ますための目的で大法ネットへ投稿しました。円明ネットはヨーロッパの法を正す中で力強い道具であります。ヨーロッパの修煉者達はとても良い環境と機会を有しており、それを通じて法を正す中での彼らの体験を世間の人々に伝え、そして世間の人々に我々が誰なのかを知らせ、私達がどのように中国と全世界の人々を済度しているのかを書いています。私は修煉の道でかつて多くの困難と試練に出会いました。しばらくの間、私にとっての個人修煉は法を正すことよりもっと重要な事でありました。《転法輪》の中で師匠は「人を済度することには条件を論じない、代価を論じない、報酬にこだわらない、名を重んじない。これは常人の中の模範人物よりもはるかに高い。なぜなら、これは完全に慈悲の心であるからだ。」と言いました。(「転法輪」)これは私に衆生に対する本当の慈悲の不足によって強烈な自己追求に走ったことを認識させました。もっともっと多くの法の勉強により、今、私達がやっていることの神聖さを理解しはじめてこれらの執着を捨てられるのです。

私は法を正すことの中に溶け込むことを決意しました。師匠と一緒に法を正すことの清浄な気持ちがある時は心性の向上がとても速いと私は感じました。師匠はただ私達の心だけを見ています。私達が清浄であれば、師匠は私達がすべてを克服し、打ち勝つように助けるのです。今、自分の円満など私にとってはもうすでに重要なことでなくなりました。ただ、法を正すことのなかで自分の最善を尽くしたいのです。

大法の仕事がとても忙しいため、心を静めにくい時があり、そして、いつも法の勉強をおろそかにしました。時には、私は一人の常人のように、ただ大法の仕事をしているだけでした。師匠は法を正すことをよくやるためには心を静めて絶えず法にたいする勉強をしなければならないと強調しました。私達は新しい宇宙の標準に同化しており、そうだからこそ、私達は更に有効に法を正すことの仕事をやりきれるのです。しかし、もし私達が法の勉強をしないと古い勢力のゆがんだ手配と古い宇宙中の道理に制限されるかもしれません。

師匠は「もし、彼らの手配通りにすべてをするならば、それでは、みんな、考えてみて下さい。それでは、やり終えたところ、やっていないのと同様ではありませんか?やり終えてもまだその境界と標準に留まっていては、本当にかまわないのですか?」と言いました。(「北アメリカ大湖区法会での講法」)多く法を勉強することこそが新しい宇宙の標準に合うことであり、本当の法を正すことなのです。先月、私はアメリカのヒューストンに行って衆生を済度し、中国同修者に対する迫害を減少させるため正念を発しました。私は世界の各地の大法弟子の強大な力がそこを集中し、大量にその他の空間の邪悪な要素を取り除いたと思います。私は私達のその他の空間での体は不思議で巨大で難攻不落だと感じます。ダイヤのような大法弟子の威力を邪悪は恐れ、反撃の機会すら探し出せないのです。あそこの修煉者達はこのように大雨とその他の妨害を経験し、どんな事の発生にもかかわらず、意志を固め、しっかり正念を発し、法を守っているのです。私はこれがたいへん人の心に感動と激励を与えていると思います。

師匠に対する感謝の気持ちは永遠に足りない

私にいつも思います。「宇宙のすべての衆生の中で、師匠はどうして私を選び、法を正すことを助けているのでしょう?広大な宇宙の中ですべての数え切れないほどの偉大で厳粛な仏陀、道、神の中で、どうして私はこんなに幸運に法輪功の弟子になれたのだろう?」私達のために何かをやってくれる師匠のことに悟り着いた時、私はいつも涙を流します。

私は永遠に師匠の慈悲をわかることが出来ません。師匠に対する感謝の気持ちは永遠に足りないのです。師匠の慈悲に応える資格は永遠にたりないのです。

師匠が他の一人の弟子に言ったように「あなたは今日最も幸せな宇宙の生命で、大法弟子なのです。天上の神もあなたをうらやましがっているのにまだ何を卑屈になるのでしょう。」(「法輪仏法−オーストラリア法会上での講法」)今私はただ師匠と一緒に法を正すことに全力を尽くしているだけです。そして、師匠のすばらしい無限な慈悲に感謝しています。

これらは私個人の体験と私自身の限られた段階の中での法の現れだと思います。
「仏法は限りない」、だから法を師とし、あなたがご自分のあるいはもっと良い理解があるならば、互いの交流を通じて私達が大法の全体と同様に向上し、私達の神聖なる使命を果たしましょう。