日本明慧

オーストラリア地方政府に向かって真相を確かにした体得


文/オーストラリア大法弟子

【明慧ネット】法輪大法の日を創立するのは常人社会の形式に合わせて真相をはっきりと説明する機会を作るためだと思っています。法輪大法の日を祝うのは当地方政府の歓迎の態度と、もっと多い人々に大法を知らせて、大法が広く伝わって行くことに役に立つと思っています。

正念を持って「法輪大法真善忍の日」を祝う

2年前に、各地で次々と現地の大法の日が創立されました。当時私は私達の市内でも必ず堂堂と取り組んで、メディアに知らせて、その日にもっと多い人々が参加できて、この活動を通じて、市内の最も大勢の市民に大法を知らせたいと思っていました。私は「一つの正義は百の邪悪に勝つ、悪は露出を恐れる」ことに気付きました。もしあれらが跳び出して来たら、ちょうど人々に本当の本質を見せるべきではないでしょうか。人々が真相を知るのを恐れるのは邪悪で、大法弟子ではないのです。私は何度も現地で洪法活動を行いましたが、毎回オーストラリアのウェブサイトに知らせを書き出しました。ある市政府の人は、私達の申請を受ける同時に、中国大使館の無理な要求の電話或は手紙を受け取ったと言いました。市政府はこのことで討論があったそうですが、皆一致して私達は良い市民ですので私達を支持するのが正しと言ったそうです。

2001年8月、私は時機が来たと思いました。私達の市は1996年から、錬功場所を立てて錬功をボランティアで教えていました。各市政府と団体組織活動も積極的に参与していました。毎月市内の最もにぎやかなビルで洪法活動を行います。その時には市の図書館を借りて自由に法を学びに来るようにしています。私が常人の角度から見ても、大法弟子はすでにこの地区の人々の心性を高めるに無私な貢献をしていました。法に従ってみると、当地区は正念を持ち始めましたので、民衆がもっと大法を理解出来るには良い時期だと思っていました。その時、ある同修者が私達を手伝って市長との面会時間を予約し、又アメリカの同修者が私に付き添うように手配してくれました。その日の午前、私は突然彼らが来ることができないとの知らせを受け取りました。その時、すぐ翻訳者を交替するには間に合わなかったし、今まで私は政府官吏の仕事をしたこともなく、手元に資料ももっていなかったのです。私は同修者に電話をかけてメールで資料を送るようにしましたが何故か届きませんでした。私は大法の簡単な紹介を数枚、オーストラリア他の地区の表彰証と手元にある市政府が私達の活動に参加した後に送ってくれた感謝の手紙を持って行きました。行く間に私は何故こうなるのか?邪悪の妨害なのか?何にか気付くことがあるのか?と色々考えていました。

どう言うにも関わらず、私はすべての修煉中と、正法の中で遇った色んなことが良い方に発展して行っているのに、何故心が落ち着かなく、慌てているのか?西洋人の学修者がなくて自分がアジア人だから人に好かれないのを恐れているのか?何を言えば良いかを分らないから恐れているのか?人の興味に合わないのを恐れているのか?資料が足りなく、まったく寄る辺もなく、話が間違っていることを恐れているのか?落ち着いて考えて見ると、執着が私の心を落ち着かせないのではないのか?私は一人の大法弟子で先生もいるし、大法もあります。落ち着いて、あれらの観念と情けを取り除けば、智慧が湧いてくると私は信じていました。何を言っても何をしても、私が大法の基点に立って、理性的に常人社会の理に合わせて言えば、偏る心配もないと思いました。大法の素晴らしい内包に個人の執着を加えずに、そのまま市長に伝えれば、私に反感を持つことはないだろうと私は冷静に考えてから、市長に会いに行きました。

市長は5分間の時間をくれました。私は簡単に大法と私達の錬功場所を紹介し、又私個人が錬功して受けた利益を言いました。それから市内のにぎやかな場所で法輪大法真善忍の日を創立して、皆に「真善忍」は良い、「法輪大法」は良いのを伝えたいと述べました。もし市長も同感であれば私達を支えてほしいと、貴方はこの市の市民の意見を体表していますので、この高いレベルの大法をもっと多い市民に伝えることができれば、真善忍を生活の規準にすることが出来れば、この市には光明な未来を迎えることが出来るといいました。
 市長は「良いですよ、その他何かありますか?」と言いました。私は「私はこのような仕事をしたことが有りません。だからどのように場所を申請して、舞台を作って、番組を用意して、各民族団体とメディアを呼ぶのかを知らないので、私を助けて下さい」と言いました。市長は直に一人の官員に私と連絡を取って、資料を提供してくれました。法輪大法の日を創立する2週間まえに、市長の秘書と代弁者が私と連絡を取って、市長の発言原稿を用意して私達に見せました。ある西洋人学修者は驚喜して私に言いました。「貴方は知っていますか?市長はまったく私達が言いたいことを舞台で言っていました。」

市長は永遠に100%大法を支えますと表しました

法輪大法の日の当日、市長と何人かの議員が出席して、当市は永遠に大法を支持するし、もっと多くの市民が大法を学びに来ることを望んでいると発言しました。市長は私に、貴方達の錬功場所に行って見たといいました。いくつかの民族団体は番組を用意して、私達と共に御祝いました。同地方の最大の2つの番組が取材して報道を出しました。いくつかの華人団体はお知らせを受け取った後に、そっと台の下に座って、支持と同情を表しました。あと、私の多くの友達は私に、当日の状況を新聞で或はその日にあそこを通るときに見たと言いました。事後に、私達は市長に感謝の手紙を送りました。市長からは情熱が満ちあふれる返事が来ました。市長は自分の心の中に「真善忍」があることはとても重要だと表しました。

私は大法の日には非常に素晴らしい形式で真相を確かにすることですので、この機会を見逃さないようにしたいと思いました。今年も同期に又行うと思って、2週間前から準備をしていました。先ず同日の市長の具合を知る為、連絡を取ってみると、市長は代わっているけれども、新しい市長も大法を理解し、支持していると、当日参加することが出来るとのことでした。その時は予定した日まで10日間だけあって8日は仕事でした。私はある同修者の全力を尽くした組み合わせで、色んな言葉の新聞社と十数社団体にお知らせを出すことが出来ました。翌日に二つの大新聞社から電話が来て私達に最も多く資料を求めました、その中の一つは当日に直ちに来て取材をしました。記者は私に、こうすれば明日植字することが出来て、当日の朝に市民はこのニュースを読んで、大法の日のお祝いに参加する機会が出来ると言いました。私は彼女が私達のために色々考えてくれていることに感謝しました。大法の日の4日前に、ある学修者が私にもし市長が当日私達に「栄誉」証をくれることが出来たらもっと良いと思いますので、連絡を取ったほうが良いと提案してくれました。私は市長の招待状で、他の地方の見本を一緒におくりました。

大法の日の同日の予定時間には、仕事ですので他の議員達は来る事が出来ないが、只二人が市長と一緒に来ると言っていたのですが、なかなか顔を見せませんでした。大法弟子は功法を始めたし、民族団体の番組も始まりました。観衆はだんだん多くなりました。町で歩いている大人も子供も皆手に法輪大法真善忍の字がある風船を挙げていました。道沿いに置いてある大法資料は絶えず質問をしている人々に渡されていました。その時、何人かの学修者が私に尋ねました。「市長はまだですか?」20分過ぎました。私の心は慌て始めました。どうしたらいいのか?もし市長が来られなくなったら、私はどのように学修者に説明したら良いのか?突然ある学修者が大きい声で言いました。市長が来なくても私達は続けましょう。その時私はすぐに分りました。市長が来ることが出来たらもっと良いけれども、こんなににぎやかな場所で錬功して、真相を確かにして、政府の人員に掛けた舞台で、こんなに多い市民が手に大法の字がある風船を持っているし、もっとも大勢の市民が資料を求めている、これこそが真相を確かにして邪悪暴き出して、衆生を救うことではないでしょうか?

心が落ち着いたところ市長が急いで来て私の手を握って謝りました。彼は私に黄色の大きい封筒を渡しながら、この大法表彰証を誰にあげれば良いのか分りますかと聞きました。その時周りを見ると新聞社メディアといくつかの団体の体表がきちんと座っていました。私は急いで前に出て彼達の身分を確認した上、挨拶をして感謝の気持ちを表しました。舞台の回りに紅色の灯籠を掛けてありました。民族団体が舞台上で大法を称賛していました。常人の舞踏家がお祝いの太鼓を叩いて喜びを盛り上げていました。太鼓の音の中で市長は大法の表彰証を大法弟子に渡しました。彼は両手で大法の簡単な紹介資料を持って、私達の市は永遠に100%法輪大法を支持すると表しました。市長は、法輪大法の活動に参加することが非常に好きだと言いました。多くの市民はこの状況を見て、いっしょに拍手しながら喜びました。市の牌楼には喜びの気持ちが満ち溢れていました。

良く法を学び、法に従うと、全てが円融不破になる

2回の活動の経過を振りかえって見ると、毎回に私はあまり精力を尽くしていないことに気付きました。長い時間の間、ある時には本当に時間が無いことに気付き、難しいと思ったことが意外に良く出来るときもありました。その全ては大法の威力であることに気付きました。私たちが法に従うと、全てが破れず溶け合うことが出来、智慧が自然に湧いてきます。私は全ての大法活動は適切に真相を確かにすることから始め、いかなる成功を急ぐ心理をも抱か無ければならないと思っています。只迫害されていた写真で同情を引き起こすことではなく、必ず前面的に洪法をしなければなら無いのです。嘘に騙されている常人に法輪大法を言い出と、誤解してしまいます。その同情とアフリカ難民の同情は何が違いますか?真相を確かにする仕事の量は多いです。でも私たちが求める心がなければ効果が出て来ると思います。法に従って、する事が正しければ、善良な人々は縁によって貴方の周りに寄ってきます。私たちは正法過程の望みを常人の態度の表明に置いてはいけません。自発的に説明することが出来て、自然に同地人民と政府の支持を受けるには、時機が熟すれば自然に成就するように、当然な事です。

第二、大法の仕事は修煉人が大法のことをすることで、心理状態はきっと純粋であります。純粋な心の感心されて、真相の相手はもっと良い心が動いて来ます。常人の執着に合わせて言うけれど、常人の執着を利用して求めてはいけません。それは私たちがする事は素晴らしいことで、「佛性が現れると、礼儀が明るくなる」。

第三、私は何も求めることがなければ、何も恐がることはないと思っています。自らから困難と枠を仮定してはいけない、古い勢力の手配を承認しては行けないと思っています。先生はボストンでの講法で「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをする時の心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです。」と言いました。私達が真相を確かにすることは最も良い事をすることなので、もし宇宙の邪悪の勢力が邪魔したら、他の空間の佛、道、神様は正法を行います(私達が法に従がわないときを除いて)。私は誰にも妨害することが出来ないと思っています。事柄に遇う時は、自らの純粋な心で、只表面の常人段階の法に融けざることが出来れば、純粋で、善良で、正しい表現が出来ます。奥にある大法に修められた正念は自らに一番適切な入り口を教えて異なる方法で、異なっている地方、場所と対象に真相を伝えることが出来るようになると思っています。

第四、私は大法の基点から寛容で、善良な思いやりがある心で常人に接するべきだとおもいます。一人の常人が法輪大法は良いことを知っているなら、彼らに対していかなる耐えることが出来ない圧力は入らないと思います。しかしこのような思いやりがある優しい心は彼らを感動させて、黙々として自発的に私達を支持してくれます。ある学修者が大法の日を創立する時「法輪大法真善忍の日」と呼ばなくて「真善忍の日」と呼ぶ方が良いじゃないかなと提案していたことがあります。それは大勢の人が「法輪大法」は知らないけれども「真善忍」は知っているので、大勢の人々の支持を受けやすいではないかとのことでした。この問題について、私は二つの見方がありました。一つは大法弟子が大法の基点から、得たいことは常人が真相を確かに知ってから誠に支持する心です。もし私達が彼らの言いなりに沿って大法の真相を言う勇気さえもなく恥ずかしく思っているならば、私達の立脚点はどこにあるのでしょうか?もう一つは私たちがこれらの常人に対して本当の責任感が無かったことです。地方政府を理解するべきですが、人が邪悪の脅しと利益の誘いを受けているのに、私達の公民にあるべき権利を放棄して、邪悪に妥協することは行けない事です。常人の段階の情理にかなうことで、正義を持つのは間違っていないとおもいます。大法の基点に立って、円融、理知を持って大法の仕事をするべきだと思っています。

第五、私は全体的な無私な協力があってからこそ、全体が破れずに溶け合うことができると思います。このような神聖で偉大なことは全体の純粋な心理状態から円満完成出来ると思っています。私はふだん精進が足りなく、学修者との交流も少なく、活動の参加も少なかったのです。しかし、私が法輪大法の日の活動を始めてから、学修者達は黙々と色んな仕事を組み合わせてしていました。全ての学修者はこれを自分の事と思って一家族みたいにしていました。もし、皆が心の中からお互いに協力し合うことたったら、この純粋な場所に邪悪が隠れることは出来ないのです。このような状態こそ私達の偉大な使命を完成出来る資格であります。

上には大法弟子として学法がとても重要であることを述べて有ります。私達は落ち着いて学法しなければならなりません。

私は時には自らが如何したらよいか分らない時があります。その時法は私を指示して、落ち着いて、思い切り自信を持ってやらせています。

衆生のために、私達の偉大な使命のために、私達はいつも自らは大法の弟子で大法の仕事をしていることをしっかり覚えるべきで、落ち着いて、法の勉強に頑張らなければならないと思います。
以上は私個人の考えですので、段階の有限も、体得の偏屈も有ると思いますので、慈悲の指正を宜しくお願いします。