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修煉は無私無我と、まず相手を考えるのが必須

【明慧ネット】最近多くの大法弟子は、如何に法を正す仕事と日常生活と仕事を均衡させて、家庭関係をうまく処理するかをウエブサイトで討論した。これらの記事を読んで、私はとても奮い立たせられた。常人は常に何よりも眼前の失と得を考える。しかし、それは我々大法弟子が捨てるべき名利と利己主義への執着である。特に法を正す時期において、法を第一に置き、最大限に多くの衆生(家族、親戚、親友を含む)を救うことは、法を正す時期の各大法弟子の任務である。同時に我々は最大限に常人社会に符合して修煉することが要求され、可能な限り圓融して修煉すべきである、「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」。この角度から見ると、自分の家族との問題が多ければ、それは自分を向上させるべきことに気付かせるためなのかもしれない — 家族に対して十分な善心、理解、慈悲があるかどうか。家庭生活で一言一行において、修煉者として自己への要求が厳格であるかどうか。以下に私の家庭的問題処理についての理解を、特に海外修煉者に対して分かち合いたい。不適当な点があれば、御訂正願いたい。

まず、法理上、「まず相手を考える、無私無我」というのは、家族に苦痛を与えないために修煉を諦めるとか、それを法を正す大法弟子としての責任を怠る理由にするという意味ではない。修煉は厳粛である。情によって妨げられた時、何故修煉してそれを超越しないのか? 家族に良くするとは本当はどういう意味なのか? 修煉していない家族は、理解の程度にかかわらず、もしも彼らが我々の苦痛を何らかのかたちで共にしてくれるなら、彼らは自分の未来に良い土台を築いたことになる。逆に我々の修煉を妨げるなら、彼らはひどいことをしているのではないだろうか? そして修煉者に無理に修煉を放棄させることでつくった業は、どうやって返すことが出来るのだろうか? もちろん修煉者が修煉をよくしなければ、責任は修煉者自身にある。もしも我々が強い正念をもたないなら、家族や他の多くの縁ある衆生をもつれさせることになり、実際我々は彼らの未来を破壊していることに等しい。

「内を修め外を鎮定する」(精進要旨)を学んだ後、法を正すことは自分自身と自分の家族から始めなければならないことに気付いた。家族に真相を伝える困難に遭うと、私は彼らから距離を置き、困難から逃避することさえ想うのが常であった。放棄する考えがいつも浮かんだ。私の心はこのもつれから自分を解放する方法ばかりを考えていた。冷静になってから、困難から避難することは、修煉者がもつべき態度ではないことに気付いた。それは相手を先に考えていないことをしめす。もしも私が本当に相手の未来のためを想うなら、私の一言一行が修煉者の忍と善を示すだろう。我々の一言一行を日々目撃して、家族は大法修煉の立派さと純正さを理解するだろう。「2002年ボストン法会での説法」において師父は言った。「普段自分の行動に注意を怠るなら、常人の目にとどまってしまいます。常人は法を勉強することによる深いレベルであなたを知ることは不可能なので、あなたの行いを見るだけです。あなたの一言一行によって、その人が済度されなくなってしまい、大法に良くないイメージをもたらしてしまうかもしれません。私達はこれらのことを考えなければなりません」。家族達は真善忍の基準を理解することが出来、我々を批判するのに無意識のうちにこの基準を用いる。ただ単に情に邪魔されてなのか、我々の日々の行いは純正でないばかりか、家族が理解するところの真善忍の基準にも満たない。このことが家族が大法を理解するのを不可能にする。このことが一部の修煉者が長期に渡り、家族との困難に苦しむ原因となっている。

修煉の基本は心を修めることにあり、それは常に向上させるべきである。家庭的衝突を処理するにあたって私が犯した最大の間違いは、修煉を日常生活から切り放そうと試みたことである。法の勉強をしている時、弘法や法を正すことをやっている時が修煉だと思っていた。日常生活における小事は、修煉の一部ではないと思っていた。だから私は一言一行において、自分に厳格に要求する修煉者の基準を用いることをしていなかった。ある方面で、我々は良く行っていなかったために、それが家族に修煉への敬意を現わすことをさせなかった。一方、我々は時々家族に我々に同意するよう要求し、彼らの常人としての必要は無視する。ここで言うのはただ単に彼らの生活の面倒を見るだけではなく、精神的そして感情的共鳴をもつことをも意味するのである。一時期私は弘法活動に非常に忙しく、夫と話したり子供を教育したりする時間がなかった。一言言うだけで夫と喧嘩になった。彼は私が自己主義だと言い、弘法のために外出するのをいつも止めさせようとした。正念を発する時になると、子供がこれをやってくれとか、あれをやってくれとか頼むのだった。初めは邪悪の妨害だと思い、断固として抵抗した。しかしこの問題は引き続いて起き、これは私の不行き届きのためだと気付いた — これは私の家族への慈悲の無さによるものだった。

情を超越すると、慈悲がこれに代わる。では慈悲とは何か? 今の私の理解では、無条件に自分を捧げることである。大法弟子は法を正し真相を伝えるにおいて、全てを放棄することが出来る。しかし時々我々は自分の家族も又、我々の救済を待つ衆生であることを忘れる。彼らは修煉をせず、大法弟子と同様に法を正すことを理解することは出来ない。もしも彼らの生活のもっともな要求が我々のために「犠牲」となるなら、我々が慈悲と理解をもって共通の場を見つけるのを怠れば、自然に彼らは我々が自己主義だと思う。修煉の初期において、私は法をよく認識しておらず極端に走った。家族の気持を考慮せず、無視した。修煉が進むにつれ、自己主義を放下する重要性と、他人を思いやり理解することの重要性が明白となった。

昔、修煉者が一日中経典を読み、決して雑用に時間を無駄にしなったという話を思い出す。後に高僧が、修煉とは己れの私心を修煉するという意味であると、指摘した。いつも他人の為を先ず考えるようになって初めて、修煉を完成することが出来る。このことは彼に自分の自己主義に目覚めさせ、全く新しい見解を与えた。

師父は「2002年ボストン法会での説法」において言った。「皆さんは覚えていると思いますが、私はいつもこういうことを皆さんに話しています。あること、ある情況が起きた時、それが非常に小さいことであっても、私の第一の念はまず相手を考えるのです。それが既に自然となったから、私はまず相手を考えます。」

もしも我々がこれを行うことが出来るなら、家族との困難は解決し、その過程で心性を高めることになる。より良い心性を基盤にしてのみ、我々は大法弟子としての歴史的使命を完遂することが出来る。逆に家庭的困難に面して、自己の内面を見て欠点を捜す気持がなく、障碍を積極的に克服することが出来ないなら、又家族が良くなるのを要求し、相手を変えることばかり希望するなら、我々は永遠に旧勢力の妨害に無抵抗でいることになる。その実は修煉しない家族は、我々が向上することにより彼らが大法の真相をよりよく理解することが出来るのを、待っているのかもしれない。

2002年12月15日