日本明慧

全てを善と和合させることは、大法の威徳の体現である

大陸大法弟子筆

【明慧ネット】善の力は巨大であることを、法理から知っている。しかし私はいつも真の善の威徳を感じるというわけではない。ある日「全てを善と和合させる」という言葉が突然私の心に湧き出た。大法が明智へのドアを開いてくれたかのように感じた。突然この言葉の様々な意味を悟った。

「全てを善と和合させる」というのは、善を用いて正しくない要素をどれも和合させることによって、全てはその元の境界に帰ることが出来るという意味である。それは大法の無辺の威徳をもって、大穹を正すことを意味する。大法弟子はこの世の大法の体現である。我々が衆生を善と和合させる為に大法の威徳を用いる時、正念と正しい行動が体現する。

法輪大法は「邪を鎮め、乱を治め、全てを圓融させる不敗の法力があります。」(定論より) 法に則って行っていない時は、善の威徳を感じることが出来ない。善を表現しようと努める時、私は実は追求の執着をもって行っていた。その結果として、外在の不正要素を除去出来ず、自己の不正要素も除去出来なかった。自分の善というものへの感覚に執着していた時、実は常人のレベルから大法を見ていた。

「全てを善と和合させる」ことは、一種の悟りの状態である。又それは自分自身を正す過程である。我々が「心から相手の為を考える」(シンガポール法会での説法)時、善の状態に達し、大法の威徳をもつ。法の勉強をし、正念を発し、純粋な善をもって真相を伝える時、衆生を善と和合させていることになる。この過程は一切の不正要素を解体し、衆生の佛性が法と通じるのを助ける。

法の勉強をよくすることは、「全てを善と和合させる」ことである。純粋な心で法の勉強をし、法理を悟る時、執着が除去され、衆生が我々の善と和合する。正念を送ることは、全てを善と和合させることである。何故なら法を損傷する邪悪を除去することは、邪悪に制御されている衆生を救うことだからである。真相を伝えることは又、全てを善と和合させる。人が真相を知るよう助ける時、彼らの佛性を目覚めさせ、大法に反対する魔性を取除く。

師父と大法が、私を大法と和合させて来たことに気付いた。わたし自身も、大法が衆生を善と和合させる為に私に預けた威徳を利用して来た。以前私は善の真の目的を考える代りに、善的感覚を追求していた。

人が大法に対し正念をもつよう助けることは、全てを善と和合させることである。他の人を善と和合させることは、我々自身を善と和合させる。善をもって人と接することは、善をもって自分を扱うことである。真相を知るよう人を助ける時、大法は我々を通じて彼らの佛性に通じることが出来る。これらの人々と我々は共に法に溶け込む。一言一行と一念が人々に対し善である時、我々は法と共に存在する。そして圓融した、無敵の境界に達する。

主意識を強化し心を浄化する時、我々は全てを善と和合させる、法の威徳を示すことが出来る。主意識を強くもつ時、法輪大法修煉者としての責任をいつも覚えており、大法修煉者が成すべき三つのことを積極的に成すことが出来る。心が純粋である時、邪悪を鎮圧し乱を鎮める為の、大法の威力が我々に委託される。全ての邪なものや、除去し難いものが完全に根絶される。

「全てを善と和合させる」とは、執着から完全に解放された状態である。それは本性の現れである。我々の本性は善であり、我々は全てを善と和合させている状態で行動出来るべきである。常人の邪な行いに気を悪くする時、我々は実は邪悪に操られているのである。我々の本性は邪悪に操られて良いのだろうか? もちろん良くない。では何が邪悪に操られるのか? それは我々の正の面であるはずかなく、それは我々の観念と業力である。

ある日以前送った真相を伝えるメッセージへの返信をイーメールで受取った。そのメールは、大法を中傷する汚れた言葉でいっぱいであった。私は激怒し、自分に冷静になるよう、そして邪悪にだまされた衆生自身は邪悪ではないことを、覚えておくよう自分に言い聞かせた。しかしながら、私はとても激しい返事を出した。その時は私は自分のメールが、その人の頭をはっきりさせるだろうと思った。イーメールを出してすぐ、私は不安になった。冷静になって自分の行いを反省して見て、私は邪悪に操られていたこと、そしてその人に対して善の気持がなかったことに気付いた。もしもその人が返事をするなら、彼に慈悲をもって対するべきだと自分に言いきかせた。翌日返信が来た。今度は彼の言葉遣いは前にも増して汚く悪意あるものであった。この人が如何に邪悪に毒されたかに気付き、私の慈悲心が呼び覚まされた。私は彼のイーメールにすぐに返事した。イーメールで私は彼に謝った。彼に何故私が法輪大法修煉を始めたかということと、私の修煉体験を話した。その後彼は一度も悪口を書いて来なかった。

私はこの体験に大きく動かされた。そして私の心性は大きく向上した。今になってその事を考えて見ると、邪悪の徒が「まさに毒薬のようで、あなたがそれに人を毒さないよう望むなら、それは毒することができません ─ それはそういうことなのです」(2001年カナダ法会での説法) であることが理解出来るようになった。我々が善をもって悪に対する時、邪悪は崩壊する。しかし悪をもって悪に対抗しようとすると、邪悪は頑固に狂ったように居座る。善的生命は高エネルギーと純粋な功を発することが出来る。邪悪がそれに勝ることが出来るだろうか? しかし悪をもって悪に対抗する時、我々は邪悪と同様のものを発する。我々が邪悪と同じ次元に居るなら、どうして邪悪が制御されることがあるだろうか?

日常生活における我々の善行も又「衆生を善と和合させる」ことが出来る。洗脳班から釈放された後、同僚がもう一人の同僚と私のことを話した時のことを言った。「何と善良な人間だろう、私の彼があのように扱われ、苦しむ理由はない」。昔の同僚が仕事で私の街へ来た時、私に会いに来た。「君が良い人でなければ、会いに来なかったよ」。私は彼に真相を伝えた。私は仕事熱心で効率が良く、名利の為に争うこともないという信望があったので、彼は私の言う事を信じた。私は会社でとても良い人間であることで知られている。上司や同僚は私を保護するのに尽力してくれ、長い間私は残忍な迫害には遭わなかった。私が逮捕された時、多くの同僚が私の事を不公平で気の毒だと思った。彼らは私を釈放する為に様々な方法を試した。私の会社で邪悪の要素を自動的に崩壊したのは、私が大法修煉で得た善の威力であったと思う。善の心をもって同僚に真相を伝える時、全く抵抗がない様に見える。もしも何らかの抵抗を感じるなら、それは実は私自身から来るものである。その抵抗は、私が衆生を善と自動的に和合させる機制を形成しなかったから存在するのである。この機制は我々の日々の修煉の累積から形成される。それ以外に形成されようが無い。この様に純粋な心で自分を向上させることが如何に重要であるか、私は気付くに到った。

衆生を善と和合させるには、正念と正しい行動が必用である。もしも我々が家に隠れて法の勉強をし、煉功するなら、衆生を善と和合させる方法は無い。真相を伝えに外へ出る代りに慈悲の心をもって家に居るのは、本当の善の表現とはならない。又自分の趣味や好みに応じて事を為すのは怠慢である。善は修煉者が行う様々な事において現れる。それは我々の一言一行に現れる。

「全てを善と和合させる」ことの本質は衆生を正し、済度し、大穹を破壊されないよう圓融させることである。これら全ては、我々の正念と正しい行いによって成し遂げる必要がある。

2002年12月28日