日本明慧

修煉において手放して向上する


【明慧ネット】 

修煉をする前は、私はいつも努力することによって、欲しい物は獲得できると思っていた。だから獲得出来なかった時は、努力が足りなかったのだと思った。更に努力し、それでも獲得できないと恨みを言った。この様な思考の為に、私は疲れた生活を送っていた。時々私は人間であることは、自分の人生さえ変えることが出来ず、あまりにつまらないものだと感じた。四年前転法輪を読み、これは私が一生探し求めていたものであることを知った。師父は言った。「真の向上は得ることによってではなく、手放すことから来るのです」。(2002フィラデルフィア交流会での説法) 修煉においては、得ようとしたものを必ずしも得るとは限らない。何故なら手放して初めて得ることが出来るからだ。大法修煉は人心を直接修煉する。師父が按配した法を正す修煉の路において、修煉することで私達は運命を変える。私達は実に巨大になることが出来、より高い境界へと昇華することが出来る。ここで、「捨て尽すことこそ、漏れの無い更に高い法理です」(圓融,精進要旨)という師父の言葉を思い出す。修煉において何を放棄したか、そして放棄するべきかについて自己点検し、この自己点検を通して修煉の路を更に正しく歩き、更に精進出来ることを望む。以下は私の浅はかな認識である。

1. 安逸を求める心を捨て去る ─ 大法に対し真に責任を持つ

修煉の路において安逸を求める心は障碍となる。そのような心は私達をだらけさせ、大法に対して真の責任をもたせない。安逸を求める心は、修煉者を様々な方法で邪魔する。まず第一に、もしも大法の為に犠牲になり、同修の間で信望を得たと感じると、修煉がよく出来たと思う。その様な自己満足は修煉の妨げとなる。第二に、その心は私達に精進しても意味がないと思わせ、だから修煉と圓満成就に対し、悲観的で懐疑的な気分を起こす。この心理は私達の正しい信念に影響し、修煉者としてのふるまいからどんどん逸れさせてしまい、自分が大法弟子として相応しくないとさえ思わせるようになる。

この問題の根源は、法を正す修煉の理解の欠乏である。安逸を求めることから起きる妨害を取除く為には、それをはっきり認識して排斥しなければならない。大法には名声というものが無く、救済されるのを待つ衆生がいるだけだ。私達は毎日自分を新しい修煉者と見做し、毎回初めてであるかの様に法の勉強をしなければならない。自分を他の修煉者の中に置き、自分が他の同修より優れているというような心理を持ってはならない。更に自分への厳格な要求が他との競争へと堕落すべきでない。大法の仕事を多くする者と競争しようとすると、仕事の為に仕事をすることに執着してしまうことがあり得る。高い基準をもち、それに満たない場合、懐疑的気分が簡単に安逸を求めることに走らせ、それが精進に影響する。安逸を求めることを諦めて初めて、大法に対し本当に責任を持つことが出来る。

2. 執着を放下する ─ 内面を見る

一度外国の観光名所で中国人に真相を伝えた。私は真相を伝えるに相応しいと思える写真を持って行った。そこの責任者に許可を得てその写真を使い、効果は良かった。二日後その責任者が、他の同修がこの写真は使うべきでないと思っていることを告げ、同修間での争いを避ける為に、その写真を取除くよう頼んだ。しかし私達がどうしても使いたいと言うなら、それでも良いと言った。私は自分の内面を見るよう努力した。もしも自分の正当さへの執着の為にその写真を使い続け、同修の考えを無視するなら、それは正しいと言えるだろうか? そう思って、私は写真を取除くことにした。私が自焚の展示板を十分程手に持った後、責任者がやって来て言った。「その写真は使うべきですよ。暫く見ていたが、その写真は自焚の真相を伝えるのに実に効果的だと思います。それは中国人観光客の注意を引くでしょう。彼らは展示板に書かれた真相を読むでしょう。」 この事は私に譲ることの重要さを悟らせた。私が自己認識を堅持するのを諦めた後、この真相を伝える方法に同修の理解を得た。

より深く見ると、うまく行かなかった理由は、私にはこの方法が良いと分かっていたけれど、この経験を同修と分かち合わなかったことにあると感じた。私は自分がやりたい事を簡単に言っただけで、同修はもちろん同意するものと仮定した。得意になって、同修とよく話し合うことをせず、同修の立場になって考えることをしなかった。同修と経験を話し合う時、傲って相手も自分の見方をそのまま受け入れるだろうと仮定せず、法の角度から自分の認識を話すべきである。修煉者達は各々のおかれた環境と次元の為に、異なった認識を持つ。

私は又、皆各々自分のやり方というのがあるかもしれないという事に気付いた。例えば、真相を伝えるのに、異なる地域においては、異なる方法をとるかもしれない。重要点は、修煉者が心を静めて他の言い分を聞くかどうか、そして何故他の人はその様な意見と行動をもつのかを、理解出来るかどうかである。意見が合わない時、私達は表面的な論争に陥らないようにするべきである。明慧ネットの記事があった — 同修と意見の相違があった時、彼は心を乱されたが、突然相手の考えに輝きを見た。これは修煉者達が意見の相違を見た時、厳格に法に則って内面を見る以外に、同修の意見の良い部分も見るべきであることを告げる。そうすることにより、私達は執着している自分の観念を捨て去ることが出来る。

3. 大法を証明する為に捨て去る — 人間から抜け出る

人間から抜け出ることについて、私達は表へ出て法を証明する目的をよく理解するべきであると私は認識する。大法の仕事をどれだけ多くやるかは重要でない。捨て去ることで良い話がある — ある同修はコンピューターから真相を伝える方法を学ぼうとした。しかしどんなに努力してもうまく行かなかった。彼女は思った。もしも他の同修がコンピューターで真相を伝えるのに忙しいなら、家を掃除する時間がないだろうから、家の掃除を手伝うべきだと。この同修は自分を大法の中に置き、仕事の種類を気にかけずに、自分が法から認識したことを行なったのであり、自分の興味に従って仕事を選んだのではないと私は感じた。

人間から抜け出せば、私達は神であり、抜け出さなければ人間のままである。抜け出した時は人間としてよりも神の思考法を持つ。神として行なう為の重要点は、法の角度から認識した法理に従って行なうことである。例えば表に出て来ない同修を見ると、出て来ればよいのにと、皆しきりに気にする。私達が人間的方法をもって激励し、表に出ることの重要さを強調するなら、部分的効果しか生まない。心性が到らなければ、表に出て中国に電話をしても効果は限られる。衆生救済の必要を本当に思わせる程、彼らの心を動かすのが根本的である。例えば、交流会にて、電話をかけたことで如何に心性が向上したかという経験を分かち合えば、より同修の心を打つだろう。私自身このようにして心を動かされ励まされた。法を証明する為に表に出る時、自分を真に大法の粒子と見做し、心性の位置が人間から抜け出すに到り、大法を証明する為に捨て去る事を強調するべきである。

4.家族と友人の為に捨て去る — 修煉者でない者に慈悲と善をもって対する
私達は同修の間にあってはよく修めるが、修煉者でない家族や友人の中では、何故修煉者としての基準に劣るのだろうか? 洪法の為に外出する時は、全ての人に慈悲と善をもって対することを自分に言い聞かせるが、家に戻ると気が緩んでしまう。私個人の認識では、家族や友人に如何に対するかは、修煉が堅実かどうかを最もよく示す。

両親は子供時代から私達の成長を見守って来たのだから、私達を最もよく知っている。そして彼らは大法についても多少は知っている。時に彼らは私達の欠点を法理から指摘することさえある。もしも私達が日常生活における言行で、慈悲と善を体現しないなら、彼らは大法修煉の良さを感じ取ることが出来ず、大法に対し否定的な態度をとるだろう。更に悪いことには、私達は口を修めることを忘れ、意識せずに次元の高いことを言って、彼らの理解を困難にしたり混乱を来たし、不一致を増す。言行に注意を怠って誤解を来たすなら、彼らがすばらしい未来をもつのを妨げるかもしれない。こう思い至って、修煉しない者達に真に慈悲と善をもって対する必要があり、一言一行において更に良くするようにし、放任して来た執着を、家族や友人の為に捨て去るべきであると思った。

4. 同修の為に捨て去る — 大法弟子は一体である

一度同修と意見の相違が起きた後、蘇東坡と佛印の物語が私の頭の中で閃いた。蘇東坡と佛印は共に瞑想をしていたことがあった。蘇東坡は佛印に、彼が糞便の塊の様に見えると、笑って言った。佛印は少しも怒らずスドンポに言った、「君は佛が坐っている様にみえるよ」と。蘇東坡は喜んで彼の妹に佛印をからかった話をした。しかし彼の妹は言った。「お兄さん、あなたの次元は佛印からは程遠いですよ。彼は心の中に佛が居ます。だからあなたの事が佛の様に見えたのですが、あなたの中には佛が居ないから、彼のことが糞便の様に見えたのです。」 この理を悟った時漸く、私は同修と意見の相違が起きた時、殆んどの場合私が間違っていたことに気付いた。私は同修を法の理をもって批判し、自分自身の言行を法の理をもって批判するのを忘れていた。その為私は忍の心を持つことをしなかっただけでなく、同修間に継続的な争いを起こしていた。

私達は口を修めるべきであり、難を越えられないでいる同修を批判するのでなく、励ますべきである。法を正す時期において、同修が難を越えられないでいるなら、それはただ単に執着の問題ではない可能性があり、魔の妨害が難をより難しくしているかもしれないことをも考慮すべきである。師父は言った、「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです。」(2002年ワシントンDCでの説法) 考えて見て下さい、一人の修煉者がよく修めれば、どれ程の天体と衆生が影響されることか! 法の角度から同修が魔難を越えるのを助けるだけでなく、自分自身をその人の状況に置いて悟ることもすべきである。一人の同修の遺漏は、私達全体の遺漏である。法をもって同修の欠点を批判するのは、止めるべきである。そうすることは同修が向上する助けにはならない。その代りに私達は法を最高位に置き、同修に善意をもって対し、同修の為という理由で他を批判する執着を捨て去ろう。同修の側に認識不足がある時でさえ、私達は善意をもって交流し、溝の存在を放任せず、問題を起こしたのは自分の執着であるかどうか反省すべきである。

5. 未来の宇宙の衆生の為に捨て去る — 旧勢力の按配から脱出する

旧勢力は人間の邪悪生命を利用して、大法修煉者に厳しいテストを按配した。流言が無数の人々の心を毒した。私達はじっと坐って何もしない分けにはいかず、その按配から脱出しなければならない。私はインターネットで真相を伝えたことがある。まず始めに自焚の真相を伝える資料を掲載し、その他の資料が続いた。それから残酷な迫害と世界に広がる大法について掲載した。相手は間断無く罵り続け、時と共にひどくなった。心中私はこの人は救われないと思い、現世における応報の例を掲載した。彼は態度を全く変えなかった。私は「口で悪業を造るのは止めなさい。地獄への道を求めるのは止めなさい。」とタイプしながら闘争心をもち始めた。彼は答えた、「やってみろ!応報をくれてみろ! そんなこと信じるものか!」。私は彼を救いたいんだ、彼に害になる悪業を造らせるべきでない、と思った。私は彼を正そうとすることへの執着を捨てた。それと同時に正念を発し、善意をもってタイプした、「私は心からあなたが理解することを望みます。あなた自身の為に誤りに固執しないで下さい。」 私は付け加えた。「私は誠意をもってあなたに真相を伝えています。あなたに業を造らせたくないのです。どうか信じて下さい。」 この誠意を送ったら彼の態度がかなり変わり、彼の返信は善意を示した。後程彼は真相を知る為に転法輪を欲しがりさえした。法を正す時期の大法弟子として、私の一生は修煉と宇宙の心理を護衛する為に存在する。法の勉強と、真相を伝え正念を発することは本当に重要で、私達はこれらをよく行なわなければならない。私達がよく修めず、執着を捨てられないなら、それは私達自身に影響するだけでなく、天体の衆生の生死にも関わる。もう一度励みの為に次の文を同修と分かち合いたい。「捨て尽すことこそ、漏れの無い更に高い法理です」(圓融、精進要旨) 適当でないことは御指摘戴きたい。

2003年1月1日