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内蒙古扎藍特旗土牧吉矯正所の血生臭い暴力


【明慧ネット】私は、かつて扎藍特旗土牧吉労働矯正所に監禁された。そこには、150名の女子大法学習者が監禁されている。大法学習者たちは、ここで自由がまったく奪われ話も許されず一日24時間監視されている。警察は刑事犯罪者を指示し大法学習者を罵らせ、殴らせる。刑事犯罪者は、大法学習者に対し多く暴力を振るえば振るうほど、多く奨励されるのである。私が監禁されている間に、7名の大法学習者が暴力されたため身体不随になった。
 
毎月、学習者の布団も開けられるほど牢屋を徹底的に捜査し、また身体も捜査される。もし、師父の経文が見つけられたら、暴力の上その人の衣服を火で焼いてしまう。
 
2002年5月、矯正所は、我々に対し強制的に洗脳を行った。従わない人たちは、寝させなかった。男子大隊の大法弟子は、17日も寝させなかった後、女性大隊に拉致されつづけて迫害を加え、また2日寝させなかった。6月、警察は私を迫害し始めた。隊長羅進芬と副隊長那銀花は、私を事務室に呼び出した。そこで、私は彼女等に法輪大法の真実を説き始めた。彼女等は、私の話しを許さず、いきなり猛烈に私の顔を殴りだした。すぐ鮮血が鼻から流れ出した。私が屈服しないので、今度は靴で私を殴った。羅進芬は殴りながら「私は今日きっと降伏してやるぜ!」と叫んだ。すえに、彼女は四肢が完全に草臥れてしまったので、やむをえず止めた。何日後、すなわち6月10日の夜、この二人は、また私を事務室に呼び出した。私に保証書を書かせたが、私はきっぱりと断った。彼女等はまた凶悪な表情に変わり、狂ったように私の首、腕、股を抓りはじめた。そのため、私の体のいたるところに紫色、黒の傷跡が出来ていた。その後、私は動揺せずハンストをもって抗議した。羅は、湯に浸しておいた厚いベルトで私を倒れたまで打っていた。打たれてから、私を10日間監禁された。昼は体罰され、夜はコンクリートの地面に寝させられた。また、三日間洗脳を実施された。それでも動かない私を見て、彼女等はかっとして私の両手にそれぞれ手錠をかけた上スチームの管に吊るした。その辛さと言えば言いようもなかった。
 
ある日、上からの視察団が来た。二中隊の付さんがその一行に「幹部の皆さん、私たちのために上に陳情してくださいませんか。私たち法輪大法の学習者はみな好い人です、迫害されているのです。我々を無条件に釈放しなければなりません。」と呼びかけた。しかし、視察団が離れるなり、羅と那は付さんをすぐ連れていった。彼女は、手錠をかけられ、さんざん電撃された。付さんは牢屋に帰ってきたとき、全身が膨れ上がり、座っても横になってもいられなかった。そこで、我々二中隊の学習者全員はハンストを行い抗議した。そのため、私たち全員も電撃された。
 
我々第二中隊には、趙というお姉さんがいる。我々全体でハンストを行ったとき、隊長が彼女に保証書を書かせたが、彼女は断った。それで、羅は彼女を事務室に拉致し、男の警察を呼んできて暴力させた。手錠をかけた手が警察の足で踏まれたため、手の表の皮も剥れてしまった。足が蹴られて変形し高く腫れ上がり、ベッドに上がることも出来なかった。男警察は、また二本の電撃警棒で彼女の顔、首などを電撃していた。電撃された彼女の顔と首は紫色の大きな泡ができ、そこから膿が続々と流れ出ていた。その迫害された真相を隠すために仕事をする時に、警察は彼女に頭巾を被らせた。しかし、趙さんは、わざと頭巾を外し皆さんにその迫害された真実を見せた。これを見て、羅は狂気になり大声で罵りだした。一度、彼女がハンストしたとき、警察は彼女の口を開けさせるために鉄の棒を使った。彼女の口の両側が破れ怪我した。
 
私たちが矯正所に入れられた当初に、少しの自由もなかったので、私たちはストライキを行った。警察は、一人一人連れ出し、暴力を行った。紀さんは、警察に法輪大法の真相を説明したが、警察らは耳を貸してくれない代わりに、大暴力をふるった。彼女は多くの警察に囲まれて電撃、暴力されていた。彼女は、顔全体が膨れ上がり、体中に傷だらけになった。そのため、彼女は生活も自立できなくなり、釈放されるまではずっと横になっていた。
 一中隊の馬さんは、矯正所の規律を書くのを断ったため、ひどく殴られた後、縄の刑を施された。彼女は一日十回ほどこの酷刑をされ、四回ほど意識を失った。最後に、邪悪の警察も「法輪功、本当に我慢強い者だ。」と驚いた。撫順の李小艶さんは、保証書を書くのを断ったため、打たれて足が折れた。
 
王桂英さんは、顔が厚いベルトで打たれて変色、変形した。孟胡?さんは何本の電撃警棒で電撃され、その凄まじい叫び声が牢屋の中を木霊していた。第一中隊では、学習者をスチームの管に吊り上げて酷刑を施し、意識を失ったら下ろすが、蘇ったらまた吊り上げて酷刑を続けたのだ。
 
外部からの視察団などが来る時になると、警察は、酷刑され怪我した学習者が見られないように地下の洞や豚の小屋に運んで隠したものだ。このような野蛮な暴力、血腥い酷刑は、この矯正所において日常茶飯事であり、ナチスの強制収容所よりも残酷である。