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唐山の女医、法輪大法の善さを謳ったがため、3年間の悲惨な迫害を受けた

【明慧ネット】私の名前は王玉船、女性、29歳、大学卒。河北省唐山市開平医療集団会社趙各庄鉱山病院の内科医として勤め、1998年9月より法輪功を学習し始めた。2000年2月21日に私は法輪大法の善さを訴えたくて陳情のため上京した際、宿泊したホテルにて警察に拉致されてから監禁の日々が始まった。

私は唐山市古冶区留置所に14ヶ月間刑事拘留として監禁された。この期間中に古冶区公安支局より留置所に対して法輪功学習者を釈放する依頼があったが、私が所属している開?趙各庄鉱山の党書記の高孝徳氏及び趙各庄病院書記の王岩継氏が担保することを断ったため、私の釈放は実現しなかった。留置所内で私は2度絶食をして不法監禁に対し抗議し、勤務先に私を迎えに来るように求めた。しかし、勤務先は拒否したのみならず、私を唐山市安康病院 (政治犯や法輪功学習者を迫害する目的で公安局が設けた施設) 精毒科(精神病、麻薬常用者が対象)へ移送したのだ。そこで、私に対して強制的に点滴をし、管を胃に挿し込み強引に食物を詰め込む暴行を行ったのだ。私は協力しなかったため、管は気管に入ってしまい私はもう少しで窒息死になるところだったのだ。

2000年4月25日、趙各庄鉱山党委事務所主任及び病院副書記の霍双来氏が私を唐山市法制学校(即ち市の紡績大学洗脳班、法輪功学習者に対して暴力によって強制的に信仰を放棄させる場所である。江沢民は「転化」と称している)へ移送した。ここでは法輪功学習者はそれぞれ単独の部屋に監禁され、鎖を掛けられ、窓は針金に覆われ、外は見えないように花柄の張り紙が貼られ、学習者は互いに会話することが禁止されていたのだ。そして、毎日「授業」を受けさせられ、法輪功を中傷するビデオを見せられた。又、過酷な軍事訓練を受けさせられ、煉功する学習者に対しては手錠を掛けたり、師父の新しい経文を見つけると下着まで脱がされ野蛮に体の捜査をされたりする。経文の出所を白状しなければ酷い殴打をされ、拷問が行われるのだ。又、私たちの手を強く押さえつけ、私たちの意志を潰そうと強引に「転法輪」を焼き付けるようにさせられた。このいわゆる学校と言う場所では転化組及び監視制御組に分かれている。転化組組長の王志杰氏は正に正真正銘の用心棒で、副組長の張阿寧氏はヤクザなのだ。彼は女子大法学習者を触ったりセクハラしたり、夜は女子学習者の部屋に入ったりするのだ。このような用心棒やヤクザが私たち「真、善、忍」を修煉する善い人たちを転化させようとすることから、この学校がどんな性質を持っているのかは一目瞭然なのだ。

2001年8月7日、私は趙各庄鉱山公安支部副部長に唐山市開平区に位置する河北省第一労働矯正所へ移送された。ここで、私は睡眠を取ることが許されずにいて、丸々6昼夜に亘り、警察は私に対して相次いでの「談話」、そして、直立不動に立たされることによって、私の足がパンのように大きく腫れ上がったのだ。

2001年8月14日、私は正式に労働矯正の刑に処された。労働矯正所の警察は私に対して高圧的な迫害を始めたのだ。睡眠を禁止され、直立不動にさせられ、長時間に亘りしゃがみ続けさせられ、訓話、風刺や人格の侮辱をされながらビンタされる.…8月の秋風の中に、私は何度も何度も暗い闇の中で夜明けまで立たされたのだ。労働矯正所に入れられてからの8月中に、私は殆ど睡眠を取っていなかった。睡眠不足のため、私は呂律(ろれつ)が回らず、トイレにいる数分間も座り込んで寝てしまう程だったのだ。労働矯正所の転化事務室にいる、法輪功学習者への迫害を専門とする悪党警察の魏濤氏は私に一晩掛けていわゆる「思想工作」を行ったが、結果は思わしくなかった。翌日、彼は微笑む仮面を外し本来の凶悪な本性を丸出ししたのだ。私の顔が腫れ上がるほど午前中に顔をビンタし続けたのだ。そして、殴りながら私に向かって「転化するのか、しないのか?」と問い掛けられたが、私は意思強く「転化しない!」と答えた。「転化しないと、柿の木に宙吊りにする。当初は皆(他の法輪功学習者を指す)も宙吊りされたのだ。一本の柿の木に一人....さもなければ、特別室に監禁するのだ。」私は振り向きもせず動揺しなかった。彼は私が驚かない様子を見て、電気警棒を取ってもらい、私に向かって陰険に笑いながら「電気ショックを受けたことはあるのか?試そうか。」そして、彼は私に電気を流し....。

私は屈さなかったため、2002年1月15日から3月1日の間に労働矯正所所長の許徳山氏が私一人を男子監禁棟病院の2階の部屋へ移動し、「攻堅組」の警察班を設け、私に対して高圧的な迫害を行ったのだ。又も長時間に亘って直立不動に立たせられ、睡眠を取らせない、毎日終わらない「談話」、脅迫、恐喝、風刺嘲笑....。最初の二日間は一睡も取らせてくれなかったが、その後は、一日2〜3時間の睡眠が許され、旧正月を過ぎてから一日4〜5時間の睡眠が許されたのだ。最後に、私がトイレへ行かせてもらえないことを抗議するため絶食してから、やっと女子監禁棟へ帰してもらったのだ。

のち、私は自分の刑期が2年で、2002年2月21日に刑期終了すれば、釈放されることを思い出した。しかし、私は何人の警察に聞いても彼ら全員が私の刑期は3年と嘘をついたのだ。私はその故、釈放を求め絶食抗議をした。そして、絶食して24日目に、彼らは私に対して胃に管を挿し込み、強引に食物を詰め込んだり、点滴をしたりしたのだ。一部の監視員(犯罪入所者)が同情してくれた。私が強引に食物を詰め込まされる時の苦しい様子を見るに耐えがたくなった。又、一部の監視員が私に「我々を恨まないでね、我々がもし指示通りに従わなければ隊長に刑期を延長されるからだ。仕方が無いのだ。」と小声で話した。私は自らの命を掛けて2002年6月1日にやっと釈放され、労働矯正所から出たのだ。

しかし、私は決して自由になった訳ではなかった。出所した日、勤務先である病院の書記である姚慈謀氏(オフィス電話:0315−3051492)は大勢の人と共に出口で迎えてくれた。彼は私に病院の同僚たちが私の帰りを待っていると微笑みながら話した。私もやっと自由になったことで嬉しかったが、途中で私は姚書記に「これからは何処へ行くのか?」と問い掛けた。「そうね、今の我々は医療集団の管轄下になったから、医療集団は市内にあるのだ。」喜びはあっと言う間に空しく終わってしまったのだ。彼らは再び私を唐山市法制学校(実質ファシスト洗脳班)に連れて来たのだ。私は憤慨して姚書記に向かって「どうしても私をここに置いて行くなら、私は辞職する!」と言った。

この違法して犯罪しているいわゆる法制学校の中では大勢の法輪功学習者が不法監禁されているのだ。私はここでも数度絶食抗議を行い、釈放を要求し、最長は20日に達した。しかし、勤務先の上司は私を迎えることなく、逆に医師や看護士を派遣し、私が気息奄奄になっている時は2本の点滴をさせられたのだ。医療集団の党委副書記の程素芹氏(オフィス電話:0315−3025608)は私に「あなたは上司が安心出来るように法輪功の修煉を放棄する保証をすれば、ここから出られるのだ」と話した。私についている指導員の辺宝豊氏は絶食中の私を構ってくれなかった上、私に向かって「あなたは病院のクズだ!」と罵った。私はその後、何度も勤務先及び唐山市委員会のトップ宛に手紙を出し、法律に則り自由を返すように求めたが、返事は無かった。

私の六十幾つの年老いた父親が遥々田舎から面会に来たのに、「法制学校」の入り口で数時間を待っても会わせてくれなかったのだ。私は副「校長」の張再森氏に「あなた達は、私たち法輪功学習者は親も要らないとでっち上げるが、あなた達が私たちに親と会わせないようにしたことが本当なんじゃないの?」と質問した。

以上は私がここ数年間法輪功を修煉し、より善い人になろうとしたために受けた迫害なのだ。只「法輪大法は善いものだ」という一言を言いたいがために受けた迫害なのだ。私は自らの命を掛けて一言を言いたいのだ。「法輪大法は善いものだ!」