日本明慧

「迫害されて亡くなった」のは旧勢力の案配である

【明慧ネット】文/米国学習者

【明慧ネット】今日、ある交流体験談を読みましたが、その文中、「邪悪に迫害されて亡くなった人は、師父はその人が圓満することを許されることでしょうが、しかし、明白にこれは大法と師父が望んでいる圓満形式ではないと思います」と書かれてました。むろん、この意見に賛成しない学習者もいますが、この「迫害されて死亡した」ということについて、法理の上で解釈してみるべきだと思います。それは、旧勢力による私たちに対する案配を徹底的に否定できるか否かに、つながるのではないかと思います。法を正す中で起きたあらゆることには、何らかの理由があることでしょう。大法の弟子としては、この問題をはっきりと認識しなければならないと思います。師父の《シンガポール法会における講法》の中には、このようなお話がありました。

「問:もし、表面的に法輪大法を真に修煉していると見えた人が突然車の事故で亡くなったら、この人を魔と見なしてもいいでしょうか?

師:私はこのことについて言いません。私はあなたのこの問題を直接に答えませんが。生、老、病、死は人類社会においてそもそもこのように存在しています。では、修煉する人であるか否か、或いは、圓満成就できるか否か、このことは、今のこの時期には表面から見極めることができません。私がさっき話したように、重大な問題を直面するとき人の心を見ないといけないです。ある人は煉功しているうちに亡くなりました、では、それに対してあなたがどう考えるかを見ます。彼は圓満成就できたかもしれません、或いは彼は魔であるかもしれません。でも、それは単なる一つのことではないです。それを利用して、重要な一刻にあなたはどう、修煉において行けるかどうかと言う学習者の心を見ます。あるこのような人がこのことのために貢献して、圓満成就の水準に達して、学習者の心性をはかるための条件を作ってくれました。このようなことがあるだろうと思いますが、でも、原則的に私は認めません。また、このように破壊しに来ることも存在します。このように邪魔をして、重要な時にあなたに対して何かのトラブルを作ってしまいます。しかし、私たちはこれを使って、人の心を見ます。あなたたちがこれからまだ修煉できるかどうかを見ます。修煉というのは非常に真剣なことです。」

このお話は師父が弾圧が始まる前におっしゃったものですが、しかし、法を正すことは前後一貫しています。師父がおっしゃった「あるこのような人がこのことのために貢献して…」の中の「このこと」について、私個人の理解では、師父が法を正すというこの大事なことの全般を指していると思います。旧勢力は師父が正式に法を伝えるときから、今日までずっと各種の「試練」(実際は破壊です)を行ってきて、今狂っているほどに達しました。この過程では、多くのことが起こりました。例えば、ある学習者の突然の死、あるいは迫害されて亡くなったとか、実は皆旧勢力の段取りで、全く正法が要求していることに一致しないです。師父は「原則的に、私は認めません。」とおっしゃいました。ですから、師父はすでにはっきりと、この類のことは大法の法理が要求しているのと全く一致していないと指摘しました。

しかし、「迫害で亡くなった」というようなことが起きました。この中には邪悪が狂うほど迫害しているという原因がある一方、学習者が法理の上ではっきりとしていなくて、正念が足りないと言う主な原因もあるのではないかと思います。と言うのは、個人で旧勢力がしたこの段取りを突破するのは本当に容易ではないと思います。非常に純正かつ意志の強い正念が必要ではないかと思います。法を正す中に、ある一部の学習者が肉体的な迫害を受けていてその苦しめを耐えられなくなった時、「この苦しみが早く終わってほしい、もうこの人間の肉体は要らない」という考えが思わず出てきて、しかも、自分が最初から最後まで大法を固く修煉していて、邪悪に妥協しなかったから、圓満ができる、それが法理に適っていると考えます。実に、このような考え方自身が旧勢力から来たもので、本当の自分の願いではないはずです。しかし、残酷な迫害において、正念がそれほど強くなくて、この種の一念を認めれば、邪悪な旧勢力に破壊するチャンスを与えることになるのではないかと思います。低いレベルの邪悪はすべての大法弟子が死んでしまうほど、あらゆる方法で大法の弟子を迫害しようとしているようです。しかし、師父と大法の原則はそれを許さないことでしょう。さらに、旧宇宙の理もかれらを制限していることでしょうから、気ままに迫害をやろうとすることはできないことでしょう。しかし、もし、その人間の肉体を捨てたいと選択してしまったら、かれらに迫害をエスカレートする正当な理由を与えたようなものではないかと思います。つまり、彼らに目的を達成するチャンスを与えたことになるのではないでしょうか。

大法の弟子は人間世界の生と死の現象を見破り、永遠となる命の長い流れにおいて、一瞬に過ぎないであろう苦しみを気にすることなく、生と死を放下することで死を恐れることも感じないということができるでしょう。しかし、大法の弟子の人生は、大法を証実するのためにあるのでしょうし、途中で勝手に旧勢力に奪われては、ならないものではないでしょうか。もし、大法の弟子が残酷な迫害のなかで強い正念を保っていれば、大法と師父を堅く信じ、正念で邪悪を取り除き、「師がいるし、法もあるし、何かを恐れるというのか?」(《シドニーにおける講法》)と思えば、邪悪な旧勢力は、あなたの肉体を奪う勇気さえを失うことでしょう。かれは他の空間で見ており、あなたを殺しても、あなたが正法の弟子として亡くなり、かれにとって何もプラスのことがないと分かっており、かれは大法の弟子としてのあなたに、汚点をつけようと言う目的を達することができなくなり、やめるしかないでしょう。もし、意思の強いあなたに対して、それでも邪悪らは迫害を続けたいならば、多くいる護法神はそれを許せるのでしょうか。決して許さないことでしょう。

師父はこのようにおっしゃいました:「もし、私たちの正念が十分に強くて、また、旧宇宙であれ新宇宙であれ、一つの生命が何を選択するのかは彼自身で決めなければならなくて、歴史上で彼は何かの願いをしたかもしれないが、でも重要な時にどんな選択をするのか彼自身で決めるという宇宙の一つの理に適えば…」(《2002年米国フィラデルフィア法会での説法》)、「もし、このような情況の下で、邪悪がまだ迫害を続ければ、では、私は容赦なく邪悪を取り除きます。私は無数の法身をもっているし、しかも私に手伝ってくれる無数の正神がいる、みんな直接に邪悪を取り除くことができます。」(《北米巡回講法》)ですから、法理の上でこの問題について、はっきりと認識ができれば、「迫害されて死亡した」と言う正法において起きるべきではないと思われる現象は、私たちの正念の下で無くなるのではないでしょうか。