日本明慧

慈善の心の無いところ、恨みの心が取って代わる

【明慧ネット】一緒に煉功をしている学習者が、時々“不平や恨みを抱くようなこと”を言っていることに気が付きましたが、多くの学習者もそれに気付いています。又、わたしも同じ状態に陥ることがありました。この“不平や恨みを抱くようなこと”の執着心について、自分の体験と感想を述べてみたいと思います。

わたしは補導員の立場にあるため、日ごろ煉功場や大法を広げることに専念しており、法を学ぶ時間は自然と少なくなりました。そして、修煉して3年目の後半ころ、何らかの問題が生じたときの解決方法について、しばしば他の学習者と意見が食い違うこと、更に常に自分の見解が正しいということを、主張することに気づきはじめました。その後、同じ煉功場にいる他の学習者も同様な状態に陥っていることに気が付きました。煉功場で異なる意見が出た時に、ほとんどの学習者は、外に向かって問題解決の糸口を探ろうとしていたようです。例えば、他の地方の学習者に、問題解決のため電話で相談をしたり、他の学習者について文句を言ったりするのですが、自分の内側へ向わずに“どうして交流しようとしないのだろう?どうしてこちらの観点を理解してくれないのだろう?”としか考えなかったようです。しかし、修煉の道程において、“優しい叔父さん”が突然現れ、一切の難問を解決してくれるようなことはありえないことでしょう。もし、そのようなことが現実になった場合、わたしたちはどのように悟るのでしょうか? 修煉の中でどのように向上していくのでしょうか?

師父の説法から“修煉とは外に向かって求めるものではなく、自ら悟るもので、もっと時間を掛けて真剣に法を学ぶことで、全ての難問の回答は法の中にあります。修煉は、自らの心性を向上するところにあり、自らを律し、他人の欠点を探るものではないということ”このように認識しました。

このような状態は、名利の心によるもので、自分の意見を受け入れてもらいたいということへの執着ではないかと思います。わたしたちは大法の学習者であり、その慈善なるエネルギー場は、光り輝くものであるはずです。人々がこのエネルギーを感じる時に、自然とわたしたちに近づき、大法へと近づいてくるのだと思います。しかし、その慈善が“不平を言う”ものに取って代わられてしまえば、大きく変わってしまい良くない結果を導くことでしょう。師父の《シンガポールでの法会における講法》では、“私は必ず示し知らます、あなたの持っている全ての良くない心を暴き出させます。私が示し知らせなければ、他人に示し知らせさせます。”と申されました。

“不平や恨みを抱くようなこと”は、隠されているとても強い執着心であると思いました。しかも、法を正す最終段階において、これらの執着心は、既に整理された空間から逃げ出して来た邪悪な旧勢力に利用され、法を正すことを妨げているのではないかと思います。

この状態に気づいてからというもの、大法学習者として持つべき慈善心がなく、言葉と態度が辛辣な自分には、大法を広げる資格が無いのみならず、益々人々を大法から遠ざからせてしまうのではないかと感じました。その故、自ら補導員を外してもらい、より多くの時間を掛けて法を学び、心性を向上させ自我を清めることにしました。

煉功場で他の学習者と一緒に法を勉学することも、自宅で法を勉学することも執着心を取り除くことが出来ると感じました。最も重要なことは、人の如何なる心を取り除く為には、法を学ぶことに他ならないということです。そして、これが唯一の方法と思います。

当時“不平を言う”のは、わたしだけではありませんでした。従って、一緒になって執着心を取り除くことは不可能と思いました(“共通の言葉”がないからです)。それ故、暫くの間煉功場を離れ、単独で修煉することにしました。こうすれば、自分自身にしか不平を言えなくなりますので(他人に対して文句を言わなくなると、法を学ぶ時間も増えました)。このように、日々法を学んでいるに連れ、抱いている問題も自然と解決出来きてきました。

問題解決する方法は法を多く学ぶことだと思います。自宅にいても勤め先にいても、時間さえあれば法を学びまし。一日2〜3講、時には4講も読みました。そして、2ヵ月経つと自分がより優しくなり、他の学習者と交流する時に、以前のように自分の意見を主張し、自分を守ろうとする強い気持ちは無くなりました。そして、他の学習者に自分の観点を述べる時も簡潔になりました。他の学習者に何かを話そうとする際、人に押し付けるようなことをしてはならないと思います。“その人の悟ったことに従って、事を運べばいい…”と思いながら会話しています。一年間法を学んだ結果、慈悲心が“恨む心”に取って代わったと思います。今の自分であれば、法を広げることができるかもしれません。

煉功場の“不平を言う”心を現した学習者たちは、未だに向上していないことに気づいたため、今回の自分の体験と感想を述べることにしました。ここの学習者たちは、真相を伝えること及び法を広げることに非常に尽力していますが、法を学ぶことには力を入れていない気がしました。長い期間に渡り、ある次元に留まり続け、自らの執着心が見えなくなっているように思えたからです。このような状態は大法に損失をもたらしてしまうことになるでしょう。大切なことは、どれほど多くの事をしたということではなく、事を成す時に、真・善・忍の心を持っているかいないかが、重要ではことではないでしょうか。また、常に自分自身へ問い掛け、反省し、不平を言う心、他の学習者に対して足りない忍耐力、喧嘩、傲慢、身勝手などを取り除くことが、出来るかどうかも大切なことだと思います。

自分の体験と感想が、学習者の“不平や恨みを抱くようなこと”に対し、役に立つことがあれば、幸いと思います。とはいえ、皆それぞれの悟るところが違うし、それぞれの心性も違います。学習者が、早く向上できるようにしてあげたいがために、自分の悟ったことを判らせようとして、話を聞かせようとします。これが“不平や恨みを抱くようなこと”の心から来る言い訳ではないかと思います。皆それぞれ業力も違い、執着心も異なり、何かを悟るまでには、時間が必要であるかも知れないのに、今すぐにでも理解してもらおうと、押し付けているのではないかと思います。

自分の行いが、真・善・忍に相応しくないと感じる時は、人の情けを放任させてはならず、外へ向かって原因を探ってはならず、本当の原因は自分の心の中にあると理解しています。師父も説法で、常に自分自身に向かって反省することを繰り返して教えて下さっております。従って、問題に出会った時は先ず冷静になり、しっかりと法を学び(出来れば今やっていることを暫く止めて)、自分の中に、そして周りにも慈悲が満ちるように、精進すべきではないかと思います。