日本明慧

どうあれば正念が十分であると言えるのでしょうか

文/中国の学習者 修智

【明慧ネット】師父は、「ですから、邪悪、邪悪の按配に対して、正念が十分であれば、それを否定し排斥することができ、それが作用しないようにすることができます。」(「2002年米国フィラデルフィア法会での説法」)と教えてくれました。法を証明し、真相を伝える過程で、多くの大法学習者は正念を持って、危険な状態から脱した経験があります。法を正す実践が証明しているように、正念が十分であれば、師父による手助けがあり、宇宙の正の神も助けてくれ、いかなる苦難にぶつかっても、災いを転じて福となし、危険を無事に越えられ、しかも旧勢力の全ての按配を、根本から否定することが出来ます。ここで言いたいことは、どうすれば正念が十分であるといえるのであるかということです。この問題について、一学習者としての拙い見解を述べたいと思います。

1. 邪悪が狂気のように荒れ狂っても、絶望して悪あがきをするようであっても、いかなる状況であれ、師父と大法を盤石のごとく堅く信じるということ。
2. 全ての念は法に基づき、いつも法に従い、法を正す過程で生じた全てのことを測るということ。
3. 法を正すことに関する仕事を行う時、心は必ず落ち着いており、いかなる緊急なことがあっても、金剛不動を保ち、正念を持って解決するということ。
4. 正しい行いを堅持し、大法に従い、法を正す要求に叶い、師父の教え通り行うこと。

師父が教えてくださった三つのことを必ず実行し、その中のどれを無視しても、大法と一致しなくなり、法を正す要求と一致しなくなり、それは正念が十分であるとは言えないと思います。自宅で法を学び、正念を発しますが、外へ出て真相を伝えることを全くしなければ、これは法を正す要求に叶っておらず、恐れの心を隠しているとも言えると思います。多く正念を発しているから、正念が十分であるとは言えないと思います。もし、恐れの心を持って、あるいは自分の執着を隠して、正念を発すれば、その正念の威力はどうなのかと思います。正念を発する要求は「最も清浄な、最も堅い正念を発する」ことでしょうが、自分が真相を伝えていないことを補うために(真相を伝えることは、大法の弟子としての三つの仕事の中で、最も重要な一つです)、正念を多めに発するというならば、「清浄」という基準に達することは出来ないと思います。

師父は、「皆さんの正念、やりたい全ては皆法から来ています。ですから、いくら忙しくても、法の勉強をおろそかにしないでください。」(「2002年米国フィラデルフィア法会での説法」)と教えてくださり、「法は全ての邪悪、虚言を破り、正念を固めることができるからなのです。」(「妨害を排除せよ」)と教えてくれました。ですから、正念を十分としようとするならば、必ず法をしっかりと学ばなければならないと思います。法をしっかり学ぶことは、正しい念と正しい行いを請け合う根本であると思います。法を正す過程において、自分の表面身体の様々な悪いものを絶えず取り除き、正念を強化し、正しい行いを堅持し、旧勢力の全ての按配を根本から否定することができ、師父が改めて段取りしてくれた修煉の道を歩み、最後には他人を先に自分は後という無私無我の偉大な覚者まで、修煉することが出来るのではないかと思います。