日本明慧

師父のあとについて万里を行く

(アメリカ大法の弟子:2001年4月、ニューヨーク法会での発言原稿)

法輪大法が大きく広まった九年の実録写真展『法を正す道』は間もなく展示されます。この生き生きとして真に迫った以前の写真を見て、数々の困難や曲折を経て、広く世間に伝わった大法に自ら追き従ったこれらの時期を、思わず思い起こしました。私は実証することとして、全力を傾け書き上げることができましたが、これは師父ご自身の指導の下に、何度も選りすぐり、八ヶ月を経てようやく完成した偉大な作品に捧げたいと思います。

私は小さな時から病気がちで、いつも診察を受けるか薬を飲んでいたので、長い歳月の間に医者や薬物に対して、すでに確心を持てなくなっていました。92年の末、健康状態が急速に下降し、家の者に支えられ飛行機に乗って北京に気功師を探しに行きました。探し当てた気功師は、排出とか補うとかして治療するもので、根本的な問題は長い間解決しませんでした。93年の7月、友人の家で何もせずにぼんやり座っていると、本棚に『法輪功』という本があるのが目にとまり、何気なしに手に取ってめくって見ると、修煉者の下腹部に法輪を下ろすと書いてありました。私はその時びっくりしました。これまでずっと、生命の奥深い秘密を知ることのできる人はいなかったのです。気功師が霊性の生命体を造り出すことができるなんて、本当に想像することもできませんでした。この事は大きすぎたのです。けれども考えると、法輪が下腹部にあるということは、私の病気も必ず治せるということではないのかと思い、この友人にすぐに法輪功を探してくれるよう頼んだのです。

7月25日、私は李先生が北京で行った第11期法輪功講習会に参加しました。私の修煉の道は、ここから始まったのです。

私は48年生まれです。佛、道、神及び伝統文化については、その名だけは知っていましたが、実のところは何も知らず、気功や修煉に対する概念も一切ありませんでした。無神論の教育は受けましたが、学生としてはひたすら試験の点数のためのその場限りでしたので、信仰の話をすることもなく、頭の中は空っぽでした。

11期の班は北京の公安大学です。私は二十数列に座っていましたが、一時限の講習が始まるとすぐに私は引き付けられました。先生は先史文化の話をしているところでしたが、私は精神を集中して聞きながら、心の中でひそかに、どうしてこの数年、これらの事を自分でも思い立たなかったのだろうか?と驚きました。

私たちの代のうら若き女子の頃は文化大革命にぶつかり、この目で人の世の様々な辛酸辛苦や、泣くに泣けない笑うに笑えない政治ゲームを目の当りにしましたが、この痛ましい現実の中で私たちは、政治や権力、各種の思想傾向をも飛び出て冷静に観察し、その正誤を判断する独立した思考を身に付けることができていました。ところがこの見通しがつかない世界に直面すると、心は苦しく、何を規準にして判断し、何を規準にして自らの行為を把握するのか分りませんでした。職場では四六時中、謀略をねって互いに騙し合う雰囲気に包まれていて、心の中ではかなり嫌気がさしていました。そこで暇な時はいつも『奥義』という雑誌を見て、人生以外の問題をあれこれ考えていましたが、この時ばかりは心が人の世の外を漂い、とても気軽で自由に感じていました。

今日は、一遍にこんな新鮮なものを聞くことができたので、ほっとしてとても興奮しています。私はどの時限も興味津津として聞き、毎日講堂から往復したところ、体のつらさもずいぶん緩和されてきて、午後になるとそそくさと出かける準備をしていました。1期の講習が終わり、私はもう1期参加できたら素晴らしいのにと思っていました。聞くところによると12期は五?松の某職場で行われると言うので、私は急いでチケットを探して買うことができました。五?松は、私が住んでいる所からとても遠く、何時限かしてから熱が出始め、咳が出ると喉に続いて胸までも痛くてたまらず話もできないほどでした。古い学員は私に、「あなたはどんなに辛くても堅持すべきです。」と言いました。3、4日の後、熱が下がり、辛かったところも大きな物がなくなったような感じがしました。その後、私はまた13期にも参加しました。会場はさらに遠い「二七車両工場」です。まずバスで西便門まで行き、それから309番に乗り換えて郊外の終点まで行きます。毎日午後4時過ぎに出発して、7時半から講習が始まり、家に帰ると12時を過ぎていましたが、3期の会に入る頃、私は家政婦を断り、自分で料理などの日常生活ができるようになりました。

続けて1期1期と講義を聞きましたが、先生の話は益々高くなり、どれも私がこれまで聞いたことのない分野ばかりです。そうすると信じるも信じないも、われ関せずといったことなのでしょうか?

私は小さい時、北京の郊外の農村に何年か住んだことがあります。佛、道、神と鬼の概念については、その当時背当てのない椅子に座って、お婆さんたちが話す物語を聞いて得たものです。その頃の農村には電気がありません。夜には子供たちがいつも星々を眺めていました。その満天の星こそ、満天の物語なのです。どの星々も不思議な伝説に満ち溢れ、すべてが素晴らしいあこがれで、すべてが知ってはいけない秘密で、すべてが天に及ぶことが許されないものでした。もし小さな子供が悪い事をしたら、すぐにお婆さんたちが「鬼が来るよ。」と言って脅かしておいて、因果応報のあることを教えます。子供時代の経験は、私の心の中に種を植えました。ところが大きくなって学校に上がると先生が、これらはすべて無いものですと話します。町に行けば、町の人もみな現実的で、それらの見えない物の話はしません。自分でもこれまで注意深く考えたこともありません。今日のテーマをいきなり目の前に並べたら、本当に頭がふらふらして目を回してしまうかも知れません。人の命ははかないもので、経験するにも限りがあり、何もかも自ら体験することは不可能だと私は思います。それなら信じるか信じないかは先生ご本人次第です。先生を信じるなら、先生の話も信じるべきです。私は先生を子細に観察しています。先生がその場におられさえすれば、私も目を離しません。すべての声と姿と笑顔、すべての些細な動作もみなこの目で見て、心に留めておきます。ですから講習が終ってからも、後側をいつもぐずぐずと歩いています。ある日、12期の会が終わり、家に帰ろうとして五?松の地下鉄の駅で電車を待っていると、後ろから先生が歩いて来て、そばには先生のご家族の人と他に学員が1人いました。彼らは弁当箱をぶら提げていましたが、電車が入ってくるとそれを抱きかかえるようにして待って、ドアの方向に進みました。先生のおられる方はとても混んでいるのですが、私は先生たちの車輌に入ってできるだけ近づこうと思いました。ドアが開くと、多くの人が本能的に押し合いながら中に入り、我先にと空いた座席に突進します。私が入った時、先生たちは隣の車輌に入ろうとしていました。私は急いで二輌の連絡口まで歩いて行き、ガラス越しにそちらの方を見ると、先生は少しも慌てず、他の人に先を譲り、ほとんど最後に入って来ました。私は先生に気を配っていましたが、先生が入った時にはまだ1つ2つの席が残っていて、動作の素早い人なら座ることができます。私は心中気をもんで早くしてと思いましたが、先生はとても静かで、全く感じないようでした。混んでいるので人々は瞬間的に座ってしまいましたが、ひとり先生だけがそこに残り立っているのです。私は気が動転しましたが、すぐに先生は私たちとは違うのだと思いました。彼はどのような心理状態で、周囲の世界に対処するのでしょうか?だんだんと私の心の中に「正」と言う字が昇って来ました。

こちらの先生はどうしてこんなに正しいのでしょうか?正しくて人を不思議にさせます。人の世のどんな表面的な事でもごまかすことができず、すべてが本当にありのままで、形を装うこともなく、大げさに言うこともなく、こじつけることもなく、覆い隠すこともありません。講習を行う方式は、私が参加したことのあるどんな団体の方式とも違います。時間になるとすぐに始め、遠回しな物の言い方をせず、講義の内容にまっすぐ向かいます。世間のどこかの名士の媚へつらいには目もくれず、一群の人々に取り囲まれて、両手を胸の前で組み合わせ、丁重なお辞儀をして病気を取り除くようなこともありません。講習料も安く、10課を9日間で行って40元、古い学員は半額です。後になって気功協会から法輪功の講習料は低すぎて、他の功派に影響を及ぼすと言う意見が出たので、心ならずも50元に替え古い学員は元通り半額としたのです。各地で行う先生の講義は、当地の科学気功協会の招請によって主催するものなので、講習会を行った収入は科学気功協会と4分の6ということになります。そしてここで得た収入の半分近くは、随行する活動人員の食事、宿舎、交通費等で消えてしまい、残りはいくらもありません。その頃の私は、先生はお金のためではなく、病気を治療することでもなく、いったいどんな事をしようとしているのかと思っていました。

毎期の班の講堂では、先生がみなさんの体の全体を調整してあげます。学員の反応はとても強く、みんなうっとりします。ある人は一生付きまとっていた病気がすっかりなくなってしまいました。単に身体上の利に驚喜するだけに止まらず、私はこんなに伸び伸びとした心地良い気分を生涯感じたことがありません。一切があんなに透き通っていて、何の秘密もなく、親しい人と親しくない人、身分の高い人と高くない人など、世間の世情人心のすべては、私たちのいる講堂に入って来ることができません。皆さんは一面識もありませんが、心をひとつにして修煉に必要な先生の話を聞き、講堂で解散する時のほとんどは、名残惜しくて別れたくない気持ちです。静かになった時、私はどうしてこんなに感動させられるのかと自らに問わずにいられませんでした。次第に私は、先生が人として話す言葉の一切は、私の心のとてもとても深い所と呼応し、あるいは共鳴し、あるいは反応しているのではないかと感じてきました。そしてある日私はついに分りました。それが「真」なのです。私が一生をかけてあがめ尊ぶ「真」世の中で最も美しいと感じるものこそ「真」なのです。このために私は世俗に入ることを拒み、人の流れに従うことなく、命がけでそれを拒否して、一生をかけて心身を苦しめ、巨大な代価を支払っているのです。今日先生にお会いして、本当に私はあれほど高尚潔白で、堅固で崩すことのできない先生をひそかに知りました。私の心はぶるぶると震えています。

北京での13期が終った後、次の1期は武漢です。また聞きに行きたいのですが私にしてみれば自分1人で旅に出ることはとても無理でした。体にはすでに大きな変化が現われていたのですが、あまりにも自信が足りなく、湯たんぽさえも重くて持ち上げられなかったのです。そこであれこれ考えても選べないので、勇気を奮い起こしてやはり出発することにしました。私の寝台車の乗車券は中段ですが、実際のところ私にとって上がることはとても困難なので、乗車してからは下段の人の少ない席に座っていました。水を飲みたくなって、腰を曲げようとすると、上段の人がすぐに手伝って体を傾けてくれました。夜になると、下段のその席の人が突然「あなたは中段で寝なくていいのですか?私と換えては駄目ですよ」と言いました。私はとてもきまりが悪くなり、すぐに「試してみます」と言って、やっとのことで這い上がって行き、横になるとすぐ海の上にいるような感じがして我慢できず、また這い下りて来てしまいました。そして「やはりあなたと交換しましょうよ」と言うと、彼はそのまま何も言わずに中段に行きました。漢口で下車する時、同じ車輌にいた人がまた私を助けて荷物をホームまで持ってくれました。当時はただ運が良いと思っていただけでしたが、数年経ってからようやく、師父が私の面倒をみていてくれたことをはっきりと知りました。その次の武漢では3期続けて行いました。すなわち武漢での3、4、5期の第3期は武昌の財経学院で、第4期は漢口の市委員会の講堂で、第5期は武鋼でです。武漢での3期の後はすでに9月の末ですが、次回の班は広州です。私は広州までお供をして、広州の第2期講習会に参加しました。

先生が1期毎に話すことは大体同じですが、完全に同じことを繰り返すのではありません。同じような課題を話す時、多くの話は同じですが、角度を変えて話す時もあります。私は幾つかの言葉だけで急に分るようになりました。このように聞けば聞くほどはっきりとし、聞けば聞くほど事が大きくて尋常ではないと感じます。実際庶民の佛に対する理解は、すなわち厄を払い難を取り除いて人を助ける菩薩で、道に対する理解は、悪をこらしめ善の義士を称賛することです。けれども次第に私は心の中で、先生の説く理はこれらの佛や道よりひときわ抜きん出ていて、それこそ天の理であることをはっきりと認識するようになりました。先生は法輪を造り出すことができ、これほど明確に生命を理解することができ、あなたの業を消すことができますが、これは決して一般的な気に従ったものではありません。それなら先生は誰なのでしょうか?この事はすごく大きくて尋常ではありません。私は胸がわくわくしていますが、あえて思い浮かべる事を控えます。私は主人に功を学びに来るように言い、また外国の子供にも電話して、彼女が早く講義を聞くように呼びつけました。

その時に先生がどこで講義を行うかという情報を聞くことさえできれば、私は事情の許す限り最大限行きます。もしも1期毎について行こうと思うのなら、今の期の最後の講義が終った夜、すぐに汽車の駅まで走って行く必要があります。そうすれば前もって乗車券を手に入れることができますが、これも当時の大陸では非常に困難な事でした。それにその場所に到着したら、できるだけ食事と宿の安い所を探し、費用を比較的低く押えなければなりません。ある時には、中止して一息入れようかと思ったこともありますが、それぞれの期の会が終った時、先生の話がしきりに私を感動させて、もう一度ついて行こうと決心させます。天津の第2期が終る時を覚えていますが、先生は始めてこの法を皆さんのために残しておくと言うことを述べました。この「残す」と言う字は私の頭の中で炸裂しました。それはつまり、この事は永遠に行うことができないと言うことです。その次に私は、先生がこの地球上で講義する限り、天の果て地の果てであろうと、私が得ることができさえすれば、どこにでも行くと決心しました。その時私は、当時国内では比較的高級な伸縮できるスーツケースを持っていて、中には電気鍋、米、調味料、テープレコーダー、テープ、懐中電灯、衣服、雨傘等々が入っていました。当時は油や食塩も食べられず、最も食べやすいのは牛乳とおかゆでした。従ってその場所に着くと自分で作らなければなりません。この体を引きずりながら先生の行程に付いて行くのは確かに困難でした。もしもこれ以上辛かったなら先生が講演台に歩いて来るのが見えたとしても、いっぺんに消え失せてしまったはずです。それらの喜びは心の中から生まれますが、それらを愛情こめて形容する方法はなく、ただ比類ない偉大さと無限に光る輝きを感じるだけです。人の世の一切は存在しませんが、単に神聖で壮麗な先生の後に付いて行こうと思うのみです。それぞれの期の会の最後に先生は、みなさんが体験した感想を書いて来るように希望しましたが、私には残念なことに、病気を取り除き健康を保持したことや、恩に感じ徳を称えることが心の中になく、どうしても一編すら書き出すことができませんでした。心の中にいつも勢いよく揺れ動いているのは、先生が永えに私たちと共におられ、先生の光り輝きが私たち生命の道を永遠に照りそそぐことを願いますと言う言葉だけでした。

94年の4月を覚えています。私は合肥の第2期講習会から北京に帰りましたが、疲れ方がひどかったので、ベットで一昼夜横になっていました。次の期は長春ですが、長春は先生の故郷です。俗に傑出した人物が出ると、その地が有名になると言われます。私は先生の故郷に行ってみることが、ずっと以前からの願望でした。私は歯を食いしばりながらベットから這い上がり、また汽車に乗りました。汽車が長春に着くと、長春の学員が看板を高く差し上げて、当番が順々に外地から来た学員を迎えています。私たちは比較的町の中心から遠い旅館を配置されました。そこがとても安いからです。途中、私たちの一行を案内している学員が熱情的に情況を話してくれました。みんな始めて来たばかりですが、とても新鮮で疲れもとっくに忘れて、心楽しくバスの窓から外を眺めていました。突然、こちらの学員の方が遠くを指さしながら「急いで見て、あれが先生の家です!」と言いました。私たちが彼女の指さす方を眺めると、きわめて普通のコーティングしていないレンガのビルで、4、5階建ての高さです。あんなに能力のある先生が、なんとこのような所に住んでいたとは、あまりにも大変だったでしょう。みんな心の中に、尊敬の念が昇って来て、しばらく眺めていて話をしませんでした。

次の会は吉林大学の鳴放宮です。外地から来る学員が多いので、早い方を午前9時から11時、遅い方を午後7時から9時の二つの班に分けて行うことになりました。私は早い方のチケットはとっくに買いましたが、遅い班のは買えませんでした。最初の日の午前の講習が終った後、宿に帰っても気持ちが一向に落着きません。私たちは講義を聞きに来たのです。夜にはまた先生の講習があることがはっきりしているのに、宿の中でぽかんとしているなんて、味もそっけもありません。そこで2日目の講習が終っても私は宿に帰らず、講堂の前の芝生の上でぼんやりしていました。それは、夜の講習が始まる時まで、みんなで入口で立って待っていれば、キャンセルチケットを買えるかも知れないと言うことでした。私たち一群の人は、待ち焦がれるような目をして眺めていました。突然、一人の学員が私のそばで「だれかチケットはいりませんか?」と言いました。私はうれしくてチケットを掴み取ると、お金を彼のポケットの中に押し込みました。喜び勇んで講堂に入り、席に着く準備をしていると、遠くの方から親しくしている古い学員がかけて来て「あなたをあちこち探していたのよ。」と叫びました。私は「お終いだ、もうこのチケットは守れない。」と思いました。案の定彼女は、「青海から来た学員が第1回の講義を聞いたのですが、標準語があまり聞き取れなかったので、もう一度聞きたいということなの、あなたは古い学員だし、新しい学員にチケットをあげましょう。彼女は青海から一人で来たんですよ」と言いました。私は後ろ髪を引かれる思いで仕方なくチケットを渡し、すぐにまた正面の入口に立ちました。講習はとっくに始まっていて、ほとんどの人が入って行きましたが、私たちは相変わらずチケットの無いまま入口に立っていました。この時、講堂の管理人が正門を閉め側面の小さな扉を開けたので、私たちもそちらに移りました。その扉の近くに一人の青年がいました。私はさっきから彼がそこに立っているのが分っていたのですが、彼は声もたてませんでした。私が彼のそばを通った時いきなり彼は私に「あなたはチケットをいりませんか?」と聞いたのです。私はぼうっとすると、すぐに口をついて出るように「欲しい!」と言いました。彼がチケットを私に手渡すと、私は大急ぎであの青海の人が私に渡したお金を彼のポケットにねじ込みました。私はチケットを手に入れたんだと思って周囲を見ると、みんなが羨望の眼差しで見ています。私はとても恥ずかしくなって、すぐにそばにいたいつも会に付いて来る奠州の若者に「あなたが行きなさい。」と言うと彼は「あなたが行くべきだ、すぐに行ってください。」と言いました。その時、鳴放宮の地下では舞踏会を行っていて、そのチケットは扉を入った所で売っていました。そこに入れば講義の声が聞こえる大広間でしたが、誰もそのようなことはしませんでした。天津の若者も、もし私たちがそのように人を欺くことをして中に入ったとすれば、何も得ることができないと話していました。後ほど聞いた話では、私が講堂に入って間もなく講堂の管理人が学員のそのようにすこしも揺るがせにしない態度を見て深く感動し、入口にいる学員に自ら付き添って全員を中に入れたそうです。

その期の会では、みんながグループ毎に分かれて先生と記念写真を写すことになり、先生は順番にみんなと一緒に撮りました。先生は、毎日家から歩いて講習に来ます。ある学員が「車の方が便利なので、乗ってはいかがですか?」とお誘いしたところ、先生はそれとなく断わったそうです。

私たちが宿泊している旅館は、吉林大学からとても遠くにありました。その頃のバスの切符はまだとても安く、わずかに何毛かでしたが、とても早く出発する学員がいました。私は不思議に思ってその学員に「妻が支持してくれないので、どんなにわずかなお金も節約して、ようやくお金を蓄え、また班に参加することができたのです。」と話しました。私は聞いてとても心を打たれました。この話は、先生の故郷で行った最後の1期の最終の講習が終った時に、先生が故郷の人々に話しましたが、この深い思いやりが込められた言葉は、人の涙を誘いました。私と何人かの学員は、汽車の出発時間までもう30分になってしまいました。それなのにみんなは相変わらず先生の話を聞いていて、立とうとしません。鳴放宮を離れ、大通りを急いで突き切っても残りは10数分だけになってしまいました。私は心の中で間に合わなかったら厄介だと思いました。それは次の乗車券を人に頼んで買うことも容易ではなく、買えたとしても硬い席で、しかもまた天津で乗り換えなければならないからです。そこでみんなを急き立てタクシーに乗り、運転手さんに「10分で駅に着くよう早く行ってください。」とお願いしました。タクシーは駅前広場の外側に停まりました。ホームまではまだかなり遠く、それにも数分しかなく、どこがホームだかも分りません。天津の若者は私のトラベルトランクを抱えて飛ぶように走り出し、何人かの人も両手で荷物を差し上げ飛ぶように走り、何としても間に合うのだと思いながら駅に入り、直接ホームに駆け上がっても間違いませんでした。最後に息せき切って天津の若者が汽車に足を踏み入れひざまづいた瞬間、汽車は静かに発車しました。その日は本当に奇跡でした。

5月29日に成都で会が行われることを耳にしました。前の1期は重慶でした。成都ではこれまで会が行われたことがなく、法輪功の指導所もなかったと思います。道中、とてもご苦労なされている先生を目にします。天津の会の時には、20元の旅館に泊まったので、入浴することもできませんでした。私たちは講義を聞いてから帰って寝ることができます。けれども先生は24時間私たちの体を調整してくれています。それなのに相変わらず先生の宿泊先を捜して無理矢理押しかけ、中に入って礼もしないで、先生にその彼の家族の人を治療させ、先生が何を言っても聞かない人がいます。生きとし生けるものの衆生を前にすれば、どのような人の心もあるので古い学員の心の中はとても辛いのです。従って先生が常に事の始まりに付くのではなく、少しでも多くご休息なされるよう心から願っています。当時私は、先生が成都で講習を行おうとしている都合の良い条件を利用して、何かお手伝いすることはないかと考え先に成都へ行きました。成都へ着くとすぐに気功協会を捜し、「私は車を出すことができます。何かお役に立てることがあったら必ず全力を尽くしてお手伝いします。」と言いました。気功協会は独立採算方式なので、気功の講習会を行うのはお金を稼ぐためです。ですからとてもケチケチしています。

その日、先生が汽車から降りて来ました。同じ車輌には重慶から来た多くの学員も乗っていました。もう五月の下旬です。南方はすでにとても暑くなっていましたが、車内にはエアコンもなく、旅で苦労を重ねたみんなは疲れきっていました。随行した活動員は大きく梱包して束ねた  

『法輪功(改訂版)』を背負ってびっしょりと汗をかいています。気功協会が夏用のタクシーをよこしたので、先生は同行の人に荷物を持たせた先に行かせました。先生は私の主人の車で行くことになっていたので、私と主人が駐車場に行き主人の運転する車で駅の入口まで来れば、先生がいくらも歩かずに済むと思いそうしたところ、車が駐車場を出てバス停の前の十字路の入口で停まると、どこからこんなに多くの車が出て来たのかと思うほど急にぎっしりと詰まってしまいました。幸い私の車は輸入車のオートマチックだったので運転は楽でしたが、体中のあらゆる器官を動員してやっとのことで渋滞を抜け出ることができました。私はあまりにも気を揉んだので、口の中に火ぶくれができたほどです。結局、先生をバス停の前で40数分間お待たせすることになり、私は心中申し訳なくて何日も落着きませんでした。後ほど先生に伺ったところ、「あれは妨害です。」とおっしゃいました。旅の途中、このような面倒があまりにも多いのです。

先生はいつも会を実施する宣伝はしません。その時は、色々な気功班が数多く参加したため、人々の気もそぞろになって、初日の講習はいっぱいになりませんでした。ところが、先生の講義を聞くと情況は大いに違って来ました。そしてそのニュースは急速に広まり、講義が終る頃には800人余に達していました。毎日の講習が終わると、私の主人が車を運転して先生を旅館まで送ります。それはみんなが先生にまとわりついても、先生が車に乗るのを見れば諦めて家に帰るからです。先生の過労が少しでも軽減できれば私たちの心もうれしく、そして慰められます。

私たちの会は独立しています。社会とはどんな交際上のよしみもなく、気功協会でさえ単にお金を収めるだけの関係です。先生が功を伝えに出て来た過程は、食事や宿も自ら手配しなければならないので、実際には大変辛い思いをなされているのです。

成都でのそれらの日々を、私は一生忘れることができません。私は先生に付いてたくさんの所に行きました。始めの日には、文殊院に行きました。私たちの車は前でしたが、同行する後ろの車には他に香港の商人が乗っていました。彼は成都で会が行われることを聞いて、ずっと成都で待っていたのですが、共通語がうまく話せず講義を聞くのが難しいと言うので、先生が途中彼に説明していました。車を降りると、まだ後ろの車が上がって来ません。そこで私たちは先に大門に入ることにしました。前を先生が歩いて大門に入ると、両側に四天王が立っていました。先生は振り返って私に「私が講義をする時、彼らはみなこの場にいました。」とおっしゃいました。私は、「彼らはどうしてこんなに醜いのでしょうか?」とお聞きしたところ先生は「彼らの威力がとても大きかったからです。」と答えられました。その時の廟はとても乱れていて、狐、イタチ、霊魂、蛇など何でもいたそうです。先生は行く先々でそれらを清めていますが、ただ手を振るだけで良いのです。

何日かの後、先生は青城山に行きました。同行したのは大連の所長、貴州の所長、武漢の所長と何人かの学員です。その時、私は古人の言った「山高かざれば、神仙すなわち仙人あり」と言う意味が突然分かりました。私はこのような体で驚いたことに、頂上に登り又下りて来ました。帰ってから主人の同僚がびっくりしていました。成都の班が終わった後、私たちは先生と楽山そして峨眉山に行きました。楽山の羅漢堂の中で、同行の功友が走って来て先生に「××菩薩(名前を覚えていません。)が、先生にお会いできて恐縮ですと言ってお辞儀をしていました。」と言いました。先生は、「私たちが来た時、彼らはとても遠くから送り出そうとしていた。」とおっしゃいました。私は聞いてあっ気にとられていました。私にはただ一つ一つの泥で造られた像が見えるだけでした。羅漢堂を出る時には、後方にいた僧侶が、「この一郡の人たちは素晴らしい。」と言っていました。彼は明らかに何かが見えたのです。峨眉山は確かに他の所とは違います。金頂では、私の天目に始めて真実の感覚がありました。先生に付いて一回り歩くと神の事柄があまりにも多く、私の大脳はいささか耐えられません。私は『西游記』やその他の一連の伝説を思い出し、先生に「どうして神話物語が真実になったのでしょうか?」とお聞きしたところ先生は、「神話物語にも、原因が無い訳ではありません。」とおっしゃいました。

次の期は鄄州です。やっとのことで寝台券が買え、私は先生と同乗して第一号の汽車で鄄州に行きました。汽車に乗ったその日はとても暑く、駅に入った時にはものすごく混雑していましたが、先生は私と同じように荷物を持って、びっしょりと汗をかいていました。私はとてもたまらない気持ちでしたが、どうして良いのか分りませんでした。私たちの乗る車輌は一番後ろでした。乗車して始めて、私たちの乗った車輌は増結したもので、一つの鉄道局のものではないと分りました。前の列車は成都局でこれは鄄州局のものなので、前の列車はこの車輌に対する提供は一切お構いなしです。水さえもくれず、前の車輌に通じる入口にも錠がされていました。この車輌にはまだ他の学員も乗っています。私が便宜上、途中お湯がなかったらどうしようと焦っていました。私は同行の武漢の学員と水筒を探し、停車した時に前の車輌まで駆けて行って、お湯をいっぱいにしました。ところが元の車輌に戻る時間がなくなってしまい、しかたなくその車輌に止まって次の駅に着くと同時に急いでホームを走って戻って来ました。この少しのお湯も、先生が食事をする時にたった一杯の便宜をはかっただけです。私たちが先生と一緒に買った乗車券は、共通の6枚でこの旅客車輌の最後のます、つまり最も後ろの端でした。汽車が華山を通った時、先生は車輌の最後尾に立っていましたが、車輌の連結口の所にはガラスがありません。先生はそこでしばらく立って、遠くの山を眺めていました。私はその時、先生が何を見ているのか分らず、物好きにもそばに行って見ていました。先生は私に、華山の多くの修道者が、先生にご機嫌伺いに来て、汽車と一緒に走っていると話されました。これらの人は法を聞きにずっと鄄州まで付いて来たのですが、先生は彼らに「私の弟子はどうですか?」と聞かれたところ、彼らの中にはとても長く修めている人もいますが「何人かの人は比べることができない。」と言ったそうです。先生はその後の講義の時、この日の話をなされました。

鄄州の会は最低の環境でした。気功協会が探したのは既に廃止された体育館で、真ん中の床はボロボロで、周囲のレンガで築いた石段は不揃いで、古い窓にはガラスさえない所もあります。私たちの先生にこんな条件の下で講義させようとしているのです。古い学員はたしなめる方法もなく、みんなため息をついていました。会は6月11日に開かれましたがそれから何日かの週末、その日は午後4時に講習が始まりました。講義が中間に差し掛かったその時、突然天地が暗くなり大風が吹き荒れ、大雨その上雹が天地を覆い尽くさんばかりに降ってきました。ガラスのない窓から雨が斜めに降り込んで来たので、観覧席にいた人が中の方に移動し始めると、クルミ大の雹が落ちて来て、体育館の屋根は大きな音を立てて振動しました。私はこれまで、こんな荒れ狂う風雨や雹、おまけに雷と稲光が一つになって鳴り響く様相を見たことがありません。その時私は、自分は古い学員だからむやみに混乱を増幅させてはいけないと思って、静かに座っているだけでしたが、できるだけ観覧席から押し合って下りて来る人に止まる所を指名するようにしていました。雹はさらに激しくぶつかり、どうやら屋根を貫通したようです。先生のおられる教壇の方は、屋根から漏った水がザァザァ流れ落ちていて、それに続くように照明のスイッチが切れ、すべての明りが消えてしまい辺りは真っ暗になりました。この一切が起きたのはほんの数分間だけでした。みんなは先生を見ていましたが、静かに打座している人もいました。私は心の中でどうしようと焦っていましたが、かすかに先生の「上に誰かいるのか?」とおっしゃった声が聞こえたので、もう一度先生を見ると両目を軽く閉じ、両手の掌心を上に向け、胸の前で平らにしています。前の方にいる学員は食い入るように先生を見つめていましたが一人の学員が「先生の手の上を早く見て!」と言いました。先生がたちまち手を握ったかと思うと、何かを手の中に捕まえたようです。それと同時にミネラルウォーターの瓶を開け、中の水を飲み干してから手の中の物を瓶の中に入れました。この時雨は止み、太陽が出て、日の光が体育館を照らし出すと、みんなは拍手をしながら歓呼の声をあげました。その後先生は、机の上に座って大手印を行ってからみんなに「私はあなたたちのために、多くの物を摘み取ってしまう大きな事を行いました。」とおっしゃいました。この時、照明が一つ一つ明るくなり、講習は続きました。事が終わった後、いつも会に付いて来る鄄州の若者の話では、その時彼はコントロール室にいましたが、スイッチが切れたままの回路には電気が来ていないのに、照明が一つづつ続けて点いたと言っていました。その日の講習が終わった後、町に出てみると多くの裂けた木を見かけました。途中、アイスキャンディー売りの老婦人が私たちに「さっきの事は、あなたたちがもたらしたのでしょう。」と言ったので、私はなんと一般の人にこれらの事が分るなんて、とびっくりしてしまいました。次の日の鄄州の新聞は、多くの所で屋根が破損したことを報道していましたが、気象局は事前の兆候が少しもなかったと言って、ひとしきりうろたえていたそうです。気功協会の責任者は「今日は広い世間を見た。」と言っていました。その日、鄄州市の市長が来て、先生に丁重な握手をしました。聞くところによれば、彼と彼の息子夫婦が私たちの班に参加したそうです。

続いて済南の第2期です。済南体育館では3、4千人収容できますが、座席がありませんでした。済南のその期の会で先生は、間もなく発生する幾つかの事を、非常に詳しく皆さんに知らせました。

次の会は大連です。先生は、みんなが一度に大連に行かないよう望んでいました。大連は袋小路で、汽車は少なく、しかも会開催のチケットもとっくに売り切れていたので、とりたてて30日の飛行機で大連に行く必要はないとみんなに話されていました。あの時先生は途中、魔の妨害でひどく阻害されたので、船に乗って海から行きました。

成都で大連の責任者が私に、彼女たちが先生と撮った写真に龍が写っていたと話したことを覚えていました。私は不思議に思って、「今度、大連に言った時に見せてくれませんか?」言ったところ、彼女は「いいですよ。」と言いました。今日大連に来てもその事が気になっていたので、すぐに彼女を追いかけて頼みました。ある日、彼女が持って来てくれた写真を見ると本当でした。彼女たちが先生と並んで立っている後ろの空に、二匹の龍が前後に寄り添っているのです。頭がとても大きく、鼻や目の輪郭もはっきりしていて、それに誰かが上に座っているようです。さらに彼女は写真を指さし、「これは二揃いの宝剣でしょう。」と言いました。見るととても小さいのですが、さやと剣の本体が別々になっていることがはっきりと識別できます。私はあっ気にとられてしばらく見ていると彼女は、「これ一枚だけだったので、ネガを現像に持って行っても、焼き付けなかった。」と言いました。それに彼女の息子は何を言っても信用せず、実際に20数回現地に行って調査しましたが、最後には中止せざるを得なかったそうです。後になって第10課の問題回答の時、ある学員が「『法輪功』の本を見ている時、二揃いの宝剣を見たのですが。」と先生にお聞きしました。先生は、「私が宇宙から持って来た威力は比類ないものです。」と話されました。

8月5日はハルビンで会が開かれました。会場はアイスホッケー場でしだが、その時にはまだ建築中で、三面には座席がありますが、一面の壁にはベニヤ板が釘付けされたままでした。アイスホッケー場の管理人は、これほど多くの人が万里はるばる気功班に参加し講義を聞きに駆けつけて来ることなど、これまで一度も聞いたことがありませんでした。ある日、まだ講習の時間には早かったので先生は、会場を一回りしてみんなの様子をご覧になっていました。学員の前まで来た時、先生から近い観覧席の学員が大きな声で「起立!」と叫ぶとみんな立ち上がり先生に向けて敬虔で誠実な敬意を表しました。先生が前方に向かって歩かれると、前の学員がまた「起立!」と叫んで立ち上がります。このように先生が会場を一回りされるに伴って、学員が整然と起立、着席をあちらこちらで行います。その光景は壮観をきわめ、そのひと時は全会場が神神しく心から敬う気持ちに満ち溢れ、学員でさえも呆然としていました。これはどんな準備もしていなかったことなのです。私のそばにいた始めて講義を聞きに来た人が小声で、「ああ、これまでこんな場面を見たことがない。どんな国家元首が来ても不可能だ。」とつぶやきました。

延吉の1期は、延吉体育館です。熱心に取り仕切っていたのは延吉で最も早く講習を聞きに来た朝鮮族の学員です。彼は故郷のお年寄りに良い事をするのだと言っていました。聞くところによると彼の職場の70%の人が講習を聞きに来たそうです。その期の最後の日、朝鮮族の学員は艶やかで美しい色とりどりの民族衣装を着飾っていました。これは彼らの先生に向けての感謝の表れで、先生を見送るための最も厳かな儀礼なのです。講習が終了した後、簡単な閉幕式があり、先生はそこで収入の7,000元の全部を赤十字に寄付しました。

その日講堂から出て来ると私はまっすぐ汽車の駅に向かいました。図門江1号に乗って長春に行き、それから回り道をしてハルビンに行くからです。前期のハルビンの会の時、ある新しい学員が職場で借りたビデオで撮ったテープが出来上がったら、私に見せてくれると約束してくれました。当時これは貴重なものでした。その頃はビデオが買えないばかりか、テープレコーダーさえ少なかったのです。私は急いで取りに行かねばなりません。

一晩は汽車で、朝早く長春に着きましたが、私は荷物を引っ張り出すのにとても疲れました。地下通路の入口まで歩いた時、止まってトランクを立て一息ついて振り返ると、先生が後ろに立って慈しみ深く私を見ていました。私はうれしくもあり感動もしましたが、先生が私に代わってトランクを持つかも知れないと思い慌てて「先生、私に構わずにどうぞお先に、私は何でもありません。いつも一人で旅ができるのですから。」と言いました。先生が前を行ってから私は、一つ一つの階段を引きずりながらようやく下に動かしました。そしてトランクを引っ張って駅の出口まで行き、行列に並んで駅を出て頭をもたげると、先生が前に立って私の出てくるのを待っていました。いつものように慈悲深く優しく私を見ていてくれたのです。その時、心に熱いものが込み上げて来て、私は本当に先生に跪こうかと思いましたが、周囲には人も多く、先生の身辺には学員もいるので、しかたなく先生に合掌して「先生、私のためにご心配なさらないで下さい。私は一人で行けます。」と言いました。その日、私は順調にハルビンに到着し、翌日には奇跡的にも北京まで帰りました。

数ヵ月後の12月21日、広州で第5期が開かれました。これは中国での最後の1期です。その頃の法輪功は既に広く普及していて、伝わり方も非常に早く、それに何ヶ月も会が行われていなかったので、人々はみな首を長くして待っていました。しかも最後の1期ということを耳にして、道を求めるために東北や新*などの全国各地からも駆けつけました。多くの人がこれは生命の中の最も大事で、人の物語だと感じているのです。来るのが早すぎた人は、持っているお金のほとんどを講習が開かれる間の生活を維持する費用として使うため、節約して毎日2元の食事をしていましたが、広州の2元ではお腹いっぱい食べられません。北京の学員はお金を出して、彼ら1人1人に100元づつカンパしました。東北から来た女の子は、大・中企業が生産を停止したため収入がなく、野菜を売りに行ってお金を稼ぎ講習に来たのですが、持っているお金のほとんどは他の人の援助に用いました。また2人の兄弟は布団を背負い、風を食し、露をしとねとし、ほとんど乞食をしながら来ました。私の良く知っている天津の若者は、すでに4回講習を聞きに来ました。

広州の第5期は空前の盛況でした。人々のあれほど切実に法を求める心が、衆生の自覚を啓発させたということを見届けることができました。彼らの師父に対する尊敬の気持ちは、どのような言葉も表しえません。ある日、学員はとても早くから来ていました。体育館の大門に通じる途中のホールの両側は真ん中の通路を開けるようにして、三階の中から外までいっぱいの人が立っています。こうして静かに先生が来るのを待っているのです。先生が来ると、みんなが先生を取り囲んで、先生に向けて敬意を示します。みんなが内心から発する先生に対する崇敬は、体育館の係員の人々をびっくりさせました。彼らは学員に「あなたたちの先生はどんな人ですか?」と聞きました。これまで体育館に豪勢な場面は数多くありましたが、このような状況はありません。これほど多くのあんなに敬虔で誠実な人々を、今までに見たことがなかったのです。

広州の第5期は人の心を感動させました。みんなは、先生が私たちに何を教えてくれたのか、自らが歩まなければならない修煉の道とはどういう事なのかをはっきりと知り、決心を固めて堅持しました。私の子供はアメリカに留学しています。93年の末に一度帰国し、広州の第3期講習会に参加しましたが、アメリカに帰って、あくまでも頑張る事ができませんでした。ところが、第5期に参加した後、きっと彼女は大きな衝撃を受けたのでしょう。アメリカに帰っても毎日一人で煉功を堅持し、その上、周りの人に紹介しています。その後どのような困難や挫折にぶつかっても、彼女の修煉する心は動揺しません。

広州での第5期は、李先生が中国大陸で行った最後の講習会でした。それから数年は法輪功が中国全土に広まる高潮で、その次はアメリカ、香港、その他の欧州の一部の国家の人も広まる過程に講習を聞きに来ました。これらの人が帰った後、当地で最も早い法輪功の一群の学員となりました。これらの学員は後々、法輪功が世界各地に広く伝わる中で多くの活動を行い、しかるべき役割を果しました。

8年来歩んで来た道を振り返ると、大法が広く伝わる時に、この身で先生の講習を聞くことができ、親しく先生の伝功を受けることができたのは十分すぎるほど幸福だったと喜んでいます。これは多くの人を羨ませますが、非常に得難い機縁でした。この長い年月、数多くの苦労をし、数多くの難に出くわしました。だがこれは、以前病気になって痛みに苦しめられていた時の、どうしようもない心理状態とは完全に違います。自らが苦しい目にあう修煉を通じて、今は自分自身の汚い物が一つ一つ明らかに取り除かれていることを感じ、全身に生きる力が充満し、生命の希望が充満し広々とした未来が見えます。実際生命は元々素晴らしいものなのです。ただ、宇宙の法理を知らないために、無知の中で多くの業を造り、自らを苦しみの深淵に陥れているだけです。先生は宇宙の真の法を私たちに教え、さらに私たちの体をきれいに整理し、法輪と修煉の一切の要素を下ろして、私たちが大法の中で修煉すれば、身心が絶えず升華できるようにしてくれました。修煉していない人には、修煉している人がとても苦しいように見えます。けれども煉功する人は、幸福を感じています。なぜならば、私たちは向上する生命で、天地と共に永久に変らないことができるからです。過去の人は、これを単なる願望だけだと思っていましたが、なんと今日まぎれもなく自らが体験実行して、この道を歩んでいます。私たちは本当に苦しみの海から飛び出し返本帰真できるのです。

私の物語はここまでですが、とても長くなってしまいました。私は決して何らかの意思を表そうとして書いたのではありません。私が話したかったのは、師父が法を伝え始めてから9年、1分1秒たりとも停止した事がなく、この間の師父のご苦労は並大抵な事ではなかったということです。私が多くの事を知ることは不可能ですし、私たちの心にも永遠に詰め込むことができません。彼の気高くて偉大な品格、彼の広大で雄壮な智慧を、人の言語の内包で表現しようとするなら、万に一つも方法がありません。99年7月、大陸で見届けましたが、ラジオ、テレビの放送局は、気が狂ったかのようにデマを飛ばし、その卑劣な下心を使って人の良くない心を挑発し、「世間の人が講習会に行かなかったので、煉功者の中にも動揺し始める人が出た。」などと言っていましたが、全くでたらめで哀れなほどです。どうして人の心で佛の心を推し量り、人の理で佛の理を批評することなどできるでしょうか?

この法が乾坤を正す最後の時、私が自ら歩んだ道を回想し皆さんにお話したのは、私たちがおごり高ぶることが無いように、怠慢になることが無いように、過去を覚えておくためです。前を行く師父の後について行くことは自らのためであり、さらにまた宇宙の衆生の永久不変の未来のためでもあります。