日本明慧


戦争よりひどい残酷さ

2003年3月25日 文/李珍

【明慧ネット】戦争反対のデモ行進から叫びだされたスローガンを耳にした時、私は人々にとって最も大事にされているものは命そのものであると、ぐっと感じさせられた。

文明社会といわれる今日においても、命を殺害する人がなおいることに、ため息がでずにいられない。戦争反対のデモ行進が私の目の前を通り去った後、私は涙が流れそうになるほど悲しかった。というのは、戦争によって人間の命が失われる以外に、戦争よりもっとひどい恐怖、もっと残忍な行為によって多くの命が失われていることを知っているからである。ただ、これらの人々の命が失われたのは、爆弾ではなく、武器でもなく、人間性を喪失したものによってである。我々は戦争の残酷性だけを注目しているが、邪悪の国による人権に対する迫害を無視している。しかも、その人権を迫害している国家で奪われた命は、湾岸戦争や、今回のイラクに対する戦争で失われた命の数より多いばかりか、その何倍にもなっている。

現在、毎日のように数少ない人々が自分の信仰の為に命を奪われつつある。しかしこれらの人々は、いずれも無辜の人たちである。我々が戦争によって残酷を受けた国とその人たちに同情を寄せ、支持をしている時に、また誰が自分の国で迫害され正義の救援を待っている人達を支持しているのであろうか? ひょっとすれば、我々の生命に対する同情と支持の心がそれぞれ違っているのであろうか? それとも、我々ある人々はこれらのことを自分の重んじている政治や経済などの利益に比べれば、さほど重要ではないと思っているのであろうか? あるいは、われわれ極少数な人々にしか、これらの残酷な行為が知らされないのであろうか?

今、もし二つの死に方があり、そのいずれかを選択することを強いられた時、皆さんはどちらを選ぶであろうか。その一つは、爆弾によって爆撃されて直ちに死ぬことであり、もう一つは、あなたを生きたまま、あらゆる酷刑により踏み躙り、毎日の三食ごとにあなたを殴り、また夜通しで虐待し、芥子の水や高濃度の塩水を注ぎ入れ、針で爪先を刺し、電撃棒で口を電撃し、大便を食わされ、寝させられない。また、精神を蹂躙し、あなたが自殺を計らなくても実行される。すなわちそれは、虐待と蹂躪をもって、あなたを生きたまま徐々に死なせていくのである。皆さんは、おそらく酷刑により致死することを望まないに違いない。何故なら、これは非常に残酷でかつ野蛮であるからである。しかし、文明が進歩しつつある現代において、こういった人道違反のことをあえてする国がある。このようなことが世に曝かれるのを恐れるため、あらゆる酷刑と踏み躙りは必死に隠されている。したがって、外界では人類の文明が進歩しつつある今日においても、こういったことが起こっていることが知り得ないのである。これらの人々はただ心の中で信仰しているだけで迫害を蒙られている。しかもこれらの信仰は、またいわゆる国家の安全を侵害するものとして、×教して無実に言いくるめられる。この情況は、歴史上のキリスト教が三百年間迫害されていたことを思い出させる。それは、今日のことと実にきわめて類似している。これらの権力者は自分の権力と利益しか考慮せず、信仰を有する人々の強い信念を理解するすべはありえないのである。

人々が街頭に出て反戦の旗を高く揚げていると同時に、立ち上がって、こういった厳重に人権を迫害していることにも反対の態度を表明すべきではなかろうか? ある意味では、人権迫害に対する無視は人権迫害者の手助けをすることになる。これは懐疑を許されないことである。我々がこういった残酷な事実を目の前にしつつも知らん顔をし、あるいは自分のことしか配慮しないという心をもっていれば、貴方の行為はすでにこの残酷な行為の合理性を認めることになっているのである。もし戦争が人類に不幸をもたらすとすれば、人権迫害はもっと悲哀を感じさせるものと思われる。人間の精神を踏み躙りつつ、滅せられることほど恐ろしいものはない。法輪功学習者にしろ、家族教会のメンバーにしろ、中国で残酷に迫害されているもとで、彼らは厳しい環境において依然として自分の信仰を守り続けている。従って、我々はこれ以上沈黙してはならない。今、我々が正義の手をさし伸ばすべき時である。