日本明慧


新学習者の、弘法と真相を伝えることの理解

カナダ学習者

【明慧ネット】私は新しい学習者です。かなり早くから大法については知っていましたが、去年トロントに来るまで、修煉を始めませんでした。私は大法弟子の善良さと正しさを、見たり感じたりしてから大法に入って来ました。次は私の認識の一部です。

まず、真相を伝えることと修煉は、切り離すことが出来ないと思います。私の姉は、1996年に大法弟子となりました。私は彼女を通じて、多くの大法弟子を知りました。真の大法弟子であるかどうか、又どれ程よく修煉出来ているかは、他の人が見てすぐ分かります。真の大法弟子は平和でほがらかで、他の人は自然に近づきたくなります。更に彼らの言葉は人を感動させることが出来ます。しかしながら、大法の動作だけをやっている人は、このような能力がありません。真の大法弟子の心では、常に大法が第一です。彼らは大法の為に行うのであって、行う為に行うのではありません。だから彼らは人の心を感動させることが出来、彼らの言葉は直接人の心を指します。このように、彼らの真相を伝えることは、人を強く動かします。私は又気付いたのですが、一部の大法弟子は基本的に何かを成し遂げる為に行っています。彼らは基礎となることをやりたがりません。一部の人は、印象の良い弟子や、話し方の上手な弟子が資料を配ったり、領事館へ行ったりするのは、無駄だと思っています。真相を伝えることは、とても簡単そうに見えます。しかし私の考えでは、如何に良く法を理解しているかが、真相を伝えることをいかに力強く行うことが出来るかに、直接関係します。私を例にとると、法を得る前にもやはり大法が良いものだと友達に言いました。しかし如何に説得しようとしても、私は彼らを説得できませんでした。何故でしょうか? それは私が実際に法を理解していなかったからです。私の言葉は、力を持っていなかった上に、多くの執着が混じっていました。だから私は人を説得出来ませんでした。

それに、大法弟子の言葉は常人に強い影響を与えます。大陸では、多くの人は転法輪を読む機会がありません。彼らは大法弟子を通じて大法を知るようになるだけです。だから弟子の言行が大法を代表します。私の夫を例にとります。トロントへ来る前は、彼は私が法輪功を学習するのを恐れ、支持してくれませんでした。半年間の観察を通じて、彼は大法の威徳に気付き、大法弟子の平和と慈悲を感じることになりました。今では彼は法輪功の友達となり、大法の活動に参加するようになりました。これは大法弟子の中に現れる大法の威力ではありませんか?

もう一つは、大法弟子が常人社会において良い人である必要があります。師父は言いました: 「修煉者の現れは純正なもので、多くの人は皆さんの現れを見て、皆さんの事を本当に良いと思ったのです。普段自分の行動に気を付けなければ、皆さんの行いは常人の目に留まってしまいます。常人は私達が法を勉強する時のように、深くあなたを調べようとしないので、あなたの行いを見るだけです。あなたの一言一行によって、その人が済度されなくなってしまい、大法に良くないイメージをもたらしてしまうかもしれません。私達はこれらのことを考えなければなりません。」(2002年ボストン法会における説法)

私の姉はベテランの大法弟子です。とても良く精進しています。しかし時々彼女は朝の一時とか二時、又食事中に長電話がかかって来ます。彼女の家族には学習者ではない者がおり、彼らは衆生を救うことの緊急性を、理解しないかもしれません。それに、彼らは翌日仕事に行く必要があります。彼らは大法弟子は思慮に欠けると思うのではありませんか? 私達はこの様な細かいことに注意を払う必要があります。さもなければ、大法に対し良くない効果をもたらすでしょう。

最後に私は服装について述べたく思います。どんな服装をするかは個人的なことで、修煉とは関係がないように見えるかもしれません。しかし私が思うには、大法弟子は小綺麗にし、人に良い印象を与えるべきです。だらしなかったり、着飾りすぎたりするのは執着です。時々大法弟子が、変な色に髪を染めているのを見ます。大法弟子としてこのような事に執着すべきでないと思います。

以上は私の認識です。適当でないと思われることは、御指摘下さい。

2003年4月13日