日本明慧


「自分の執着を見つけられない」と言うことの裏には

2003年4月24日 文/大陸大法弟子

【明慧ネット4月24日】私はある一時期、一緒に大法の仕事をしているある同修の間にトラブルがあって、しかも、そのトラブルがますます深刻になったのです。長い間そのようなよくない情況がずっと続いて、直接に大法の仕事に影響して、順調にいかなくなりました。私とその同修はそのトラブルを解決できない情況にとても辛かったのです。私たち二人は、あるときはお互いに穏やかになれるが、しかし少しの問題があればすぐ口論をしたくなります。特に私ですが、わずかのことですぐ同修に対して怒りを出すので、それで同修は私が怒らないように、いつも私に対して配慮するようになりました。私は落ち着いた心で法を学んで、徹底的に内に向って心性上の問題を探しました。それで、その良くない情況も変わりました。

同修たちは私の変化にうれしく思いました。自分も法理に対する認識なのか、或いは心性上の向上なのか、確かに自分が根本的から変わったと感じたのです。それから、同修とのトラブルが起こっても、自分の心性を保ってすべて良く解決できました。そのとき、私はこれから同修とトラブルがあっても、きっとそれに引っかけられて恐れることがないだろうという自信が大きくつきました。しかし皮肉なことに、前日の夜、私はまた一つの小さなことで苛立って、同修に対して魔性を発したのです。それは以前よりさらに酷かったのです。このような心性上に現れた大きな差に、私はすっかりと落ち込みました。と言うのは、修めてやっと現れた正念がまた消えてしまったからです。

私は自分に「内に向かって探そう」と言い続けました。しかし、今回は内に向かって探しても、いつもある強大な力に阻まれて、自分がどこに問題があるのか見つけられなくて、自分の思惟は隙間がなく封じこめられたように感じました。その外へ押すという力によって、私は内に向かって探すことができなかったのです。その力は、以前全く経験したことがないものでした。そして私は惑い始めました。

その日の夜、私は骨が折れるほど師父の『2003年旧正月十五日米国西部法会での質疑応答』を読みました。その後、私はなかなか眠れませんでした。講法の中で、師父が東方健康博覧会である人に病気を治そうとしたとき、旧勢力は師父がその人の病気が治らないように、自分たちの命をかけてその人の病気のある所で師父の功を必死に阻もうとしたと言う話がありました。そのとき、私は内に向かって探すのを阻もうとしているのは旧勢力からの力ではないかと気付き、少し希望を持つようになりました。でも、なぜ今回旧勢力はその目的を遂げたのかと私はさらに考えました。そして、その前の数日間、私は「これから、どんなトラブルがあっても、絶対にあなたたち旧勢力に目的を遂げさせない! あなたたちに絶対に妥協しない!」と言うトラブルから向上した時の気持ちがあったのに気きました。しかし、突然起きたこのすべてのことに私は……

翌日の朝、私とトラブルが起きた同修が私を訪ねてきました。そのとき、私はまだ何かの壁に囲まれているような気がしました。私は、師父がおっしゃった旧勢力が人の病気のある所で阻もうとしたことを彼女に話しました。彼女は私のその考えに賛成してくれました。それで、私は自分のその認識が正しいとさらに自信が付いて、再び正念を固めました。しかし、旧勢力からのその様な突然の「襲撃」に対して、私はまた惑ったのです。そして、私はその同修にその前の数日間にあったトラブルから心性が向上した後の気持ちを教えました。彼女は、今の結果があるのはそのとき私が歓喜心と顕示心理を抱いていたからと言いました。私もそう考えたことがありましたが、でもなぜそれが旧勢力に隙間にもぐりこまれた理由になったのか分らなかったのです。多分、私はただ人間としての認識にとどまっていたのかもしれません。それは完全に正念で問題を見極めることができないから、だから旧勢力に隙間をもぐりこまれたと気付きました。

彼女は、大法において師父がおっしゃった歓喜心プラス顕示心理は魔に利用されやすいと言うことを繰り返しました。これは、私に考えさせてくれました。そして、私は周りの壁がなくなったように、思惟がはっきりとしてきて、心もすっきりと明るくなりました。そのとき、私はあなたが執着を持っているとき、師父と護法神は何もできないと師父がおっしゃったことを思い出しました。自分の歓喜心と顕示心理を分析して、それは師父がおっしゃった「ある大法弟子たちが大法を修め始めてから、何もかも恐れないと言う心理は、逆に旧勢力にその人に更なる試練を与えようとする口実となったのです」と言うことにとても似ていました。それに「内に向かって探すと言うのは法理の現れです。真に内に向かって探そうとすることは自分で決めることです。でも、なぜか阻みがあるとき、最初から最後まで正念でそれを取り除こうとしなかったのだろうか。やはり強大な正念を保つのは一番大切なことです。さもなければ、旧勢力にとって一人の人間の隙間にもぐりこもうとしていることになるから、それは彼たちにとってものすごく簡単です」と私は内に向かって探す法理に対して一層の認識ができました。

これは、記憶に残る教訓でした。これによって、私はさらに大法弟子の正念の厳粛さと重要さを認識しました。また、最も重要なのは正念の純正さであることも認識できました。

以上は、個人の悟りであり、不足なところがあればどうか慈悲にご指摘ください。