日本明慧


SARSに関連して真相を伝える際の心理について

2003年4月29日 文/大陸大法弟子 

 【明慧ネット4月29日情報】最近、明慧ネットではSARSに関するニュースと評論の文章がよく出ており、中国政府の真相を隠す行為を暴きだしたり、批評をしたりしている。これはもっともSARSの真相を知るには、確かに役立っていると思われるが、大法弟子としては、このことについての認識を更に深くするべきだと思っている。しかもうちに向けて自分を修煉し、純粋であるよう注意しなければならない。ここで私の体験をお話する。 

一. 大法弟子は固い決意で善を修煉する 

 現代人は小さい時から無神論の教育を受け、道徳の水準が低くなっている。我々は通常、人々に歴史上の預言を言っても、多くの人は信じない。彼らは因果応報に対して理解することが出来ないし、信じてもいないのである。しかし、我々は「実際その場面に直面したら信じても信じなくても信じざるを得ないのだ」と思う。知らないうちに時間や、外面の色々な要因にこだわっているからである。ひいては一般人と同じように、預言と聞けば内心少し腹立たしいと思っている。"SARS"と聴くと、ある学習者はすぐ 「どうでしょう?あなたたちに話した通りになったでしょう!」と言った。真相が分からない一般人がこれを聞くと、人の災難を見て喜んでいるというふうに感じたかもしれないが、実際は自分の善念が不足していて、正念が足りなかったからである。 
大法弟子の根本的な使命は、法を正す洪大な勢いが来る前に、世間に真相を知らせ、衆生を済度することである。我々は人々が邪悪集団の嘘に騙され、危険な方に向かっているのを見ると、最初は悲しくて、可哀想であり、その中には我々と縁を持っている親族や衆生がいるかもしれないのに。この時我々はあらゆる方法で彼らに真相を知らせ、大法に対する正念を生じさせるべきではないか?おそらく我々の、相手のために心から出た一言は、すぐ相手の心を打って、その人の運命を変えることだろう。そうならば、その病気に感染することもなく、或いは自然に治ったかもしれない。 

二、私は修煉したので怖くない--私心の邪魔だ 

 恐ろしい病気という情報を聞いて、もしある人がまず思ったのは「私は修煉者だから怖くない」ということであれば、それは正念ではないだろう。歓喜心の後ろには私心が深く隠れていて、大法の要求した完全な無私とはずっと距離がある。 
大法弟子は法を正す洪大な勢いが来る前に、急いで世人を済度しなければ、近い将来に分かってからでは後悔しても仕方ないだろう。本当に法をよく勉強すれば、これらの正しくない心は出ないはずである。師父が語っている三つのことは一番大事なのである。 

三、旧勢力の按配? 

 "SARS"は必全的に発生すべくして発生したのか?我々はSARSの発生することは自然なことだと思っているのか?ある人は「預言の中に既に出ているじゃないか?」と言った。ところが、我々は良く考えなければならないのは「これは旧勢力の按配じゃないか」ということである。我々はとても「自然」なことと感じる時、既に何かを黙認しているのではないか?実は今は人々が皆落ち着いていないので、多くの場合真相を伝えることに大きな障碍が出てきた。情報の封鎖がなされていた状態では、旧勢力の按配の本当の排除も出来なかった。これらは旧勢力が 「役立たない奴は淘汰する」と思って生じた現象であろうか? 

 勿論、既に救われない人々が必ずいるのだが、問題になるのは、どの位の人々が江氏集団の嘘から抜け出して反省し立ち直ることが出来るのか?これは我々が注意しなければならないことである。大法弟子に今出来る事、或いはやるべきことは、早く真相を伝えることだ。はっきりと真相を言い、一にも二にも真相を言い、根本的に人を救うことである。 

 これは個人の修煉の体験で、不敵当なところがあれば、指摘して直してくださるようお願いする。