日本明慧


正念で法を学ぶ

【明慧ネット5月7日】ロサンゼルス交流会から帰って、先生の旧正月15日の説法と法の解説を学習して、自分が過去法を学ぶ上で大きな偏差があったことを認識した。すなわち私はずっと“学んでいる”、外在なる“法”を“学んでいる”だけだった。法を学ぶ中で大法に同化していない。(たぶん、偏差とは言えず、法を学ぶ中身について認識を突破した)私は心から巨大な正念を発しているとき、“私は大法に同化したい”、本当に心から大法を学んでいるとき、私の世界のすべて、私の各空間の体、私の体のすべての細胞が、迅速に大法に同化していくのを感じた。そのとき、私は唯我独尊であり、すべての邪魔はあまりにも小さく、私の世界の中でまだ法に同化していない或いはあまりよく同化していない部分も邪魔できなく、迅速に大法に同化した。このような状態で、一講はあっという間に読み終わったが、全然疲れない、まだ読みたい……、さらに読んだとき、私は完全にエネルギーに囲まれ、本当に法光にひたっていた。

しばらくして、法を学ぶときまた邪魔が入って、静かにできなくなった。この状態は数日間に及んだ。私は正念でそれを排除したが、それでも静かにならなかった。自分に繰り返しなぜだと問うた。私は量をふやし、時間を延長して法を学んだが、少し改善されただけで、根本的には解決されなかった。問題にあったとき、自分を見つめようと考えて、“修煉はつまり自分を探し、自分の足りないところ、執着心、良くない考えを探し、どのようにしたら更によく行なえるのか、よくない考えを取り除けるのか、これはうちに向けて修煉するということです。”(「カナダ法会での説法」)、さらに先生の「転法輪」での説法を思い出した:“いろいろな目的を追求しながら功法を習い、大法を学ぼうとしても、何も身につけることはできません。”“ですから何らかの求める心をもって法を学んではいけません。”私は自分を隈なく見つめ、自分の問題点を見つけた。この間、私はあることで阻害にあって、私はこの困難にいらいらしていた、それでもっと進めなくなった。法を学ぶとき、その苛立ちのまま、法を勉強したり、これらのことを考えていた。そのため、学法もよくできず、こともうまく進まず、時間ばかり無駄になった。私は自分の心もちを調整し、法を学ぶとき、なにも考えず、ただ法を学ぶのみ、本当に“求めなければ自ずから得る”。このとき、私の学法を邪魔したものはすべて消えて、私は全身心で大法に同化でき、すぐに私がやりたいこともうまくできた。

ニューヨーク交流会後、先生は繰り返し私たちによく法を勉強するように考えてくださり、「2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説」の中で先生が学法について以下のように述べられた:“高い次元になると、要求も厳しくなります。”ある日、部屋を整理したとき、昔清書した「転法輪」、経文と説法をみて、一念を生じた:“清書しよう!”多くを求めないし、速さも求めないから、時間があれば多く書き、時間がなければ少なくしようと思った。私は一段一段と清書し始めた。実際のところ、清書は要求が高く、思想がちょっとでも外れるとすぐ間違えるので、清書するときは、心を落ち着かせなければならなかった。それ以来、毎日静かに清書する時間は私にとって一日の中で最も美しい時間で、無限の法理が清書に伴って一文字一文字と私に啓示してくれる。大法は本当にすばらしい!

以上は私が最近学法から学んだちょっとした体験です。妥当でないところがあればみなさんの慈悲なる指摘をお願いします。