日本明慧


私の「一念」に対する認識

文/中国大陸大法弟子

【明慧ネット6月7日】私は修煉において、なぜまだあることが良くできないのか。自分はその時努力したし、あきらめてもいなかったのに、なぜ乗り越えられなかったのかという一つの問題にいつも惑っています。だが最近になって、ようやく悟ったのです。ここで書き出して皆さんと一緒に交流したいと思います。

人は常人社会において物事に対して、定義や結論を決め付けたいという習慣が形成されています。往々にして一つの情況が現れると、人、物、事象に対してまず認めるか否かを判断し、ひとたび固定すれば、このような認識にしたがって進みます。実はこれは自分を縛った事となります。将来努力しても、この第「一念」に束縛されて、なかなかそこから抜け出せることができません(なぜなら、そこから抜け出せることになかなか気付かないからです)。だから、あることをよくやり遂げられません。さらに深刻なのは、往々にして多くの人がこの「一念」の作用に気付かず、悟らないことです。逆に難が大きいとか、迫害が酷いからと言っています。これは、人を惑わし、とても破壊力が大きいのです。

私は県の看守所で、ある悪警察が私にサインをしろと迫った。その時、私の第「一念」は「サインをしないとたぶんまた拘留される」と思いました。しかし、どんな時でもどこにいても絶対に邪悪に合わせないという法もすでにはっきりと心の中でわかっていました。しかも、自分もかれたちと理屈を弁論して、公道を求めました。しかし、この「一念」の影響で、力が足りなかったです。その後、「私はかれたちに真相を伝えたし、迫害に抗議したから」とまだこのように考えていました。

しかし、よく考えると、この正念が足りない理由はその「一念」があったからだと突然分ったのです。その時。私は《転法輪》の中の「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある、とわれわれは言います。」というところを思い出しました。

だから、いつでも自分の「一念」を法の上に置くことは非常に 重要です。特に、今は法を正す最後の時期となっていて、邪悪旧勢力からの妨害もあれば、修煉者自身の人間の一面からの邪魔もあります。だから自分自身を純正することが最も大切です。

私たちは大法を基準にしてすべてを量らなければなりません。何故なら私たちは大法によって作られた生命だからです。今であれ将来であれ、大法を擁護し、大法の標準を維持するのは私たちの神聖なる使命と責任です。「どのようなことが現われようと、心性をしっかり制御しなければなりません。大法に従っているものだけが正しいのです。」《転法輪》また、師父は「宇宙はどのように生まれたのでしょうか?大法覚者の一念によって生まれたのです。」とおっしゃいました。(《2002年アメリカフィラデルフィア法会での講法》)だから、私たちは時間を切り詰めて、自分自身をより純正に、より高尚に、より偉大にして、さらに圓満成就まで修煉しましょう。

個人の悟ったものです。どうぞ、慈悲によって不足なところを指摘してください。