日本明慧


二言三言:覚者の威厳は恨むのではない

文/浄心 

【明慧ネット6月4日】学習者の身辺にはこのようなことが時にはある。いつも家族の正しくない言行に怒り、唯ひたすらじっと我慢して、それがある日、ついに我慢できなくなり爆発して遂に怒り出し、自ら口実を探す:大法の弟子は慈悲があるだけではなく、また威厳がなくてはならない。

怒って恨むことは私達が「情」からさえ跳び出していないことを証明しており、またどうして覚者の威厳に言及することができるだろうか?「相手のことを憎むと、腹が立ったことになるではありませんか?それでは忍を守れなかったことになります。われわれは真・善・忍を重んじますが、そんなことをすれば善のかけらもなくなります。ですから、相手と同じようにしてはいけません・・・」「愛しているのかそれとも憎んでいるのかとにかく人間社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。・・・」(『転法輪』)

明慧ネットで一篇の次の文章が掲載されたのを思い出した。その中に“一人の狂暴な警官が、お年寄りの大法弟子に不法な取り調べをしたが、そのおばあさんの慈悲と威厳のある表情と態度に、本来は邪悪で殴るつもりだった警官が無意識のうちにその気は無くなってしまい、一貫して凶暴で残虐な態度は消え、甚だしきに至っては人をののしることさえ忘れてしまっていた。”というものであった。

この大法弟子の側から見ると、本当の大法弟子は威厳と慈悲が同時に存在し、それは一種の更に偉大な力の体現で、すべての悪と不正の要因を恐れさせるのである。

もしあなたに慈悲がなくて“威厳”を強調するならば、腹を立て、眼つき鋭く、語気荒く、それでは、あなたの「威厳」は決して覚者の威厳ではなく、どうすることもできず、それは唯の普通の人の魔性の暴露であり、いかなる「正」の力もなく、しかし相当の破壊力があり、それを一旦作用させると、魔に大いに利用され、私達個人に対して、真相を説明することに深刻な障害と破壊をもたらすことになる。