日本明慧


二言三語:信じることと信じないこと

【明慧ネット6月12日】世の中において、修煉の中で、始めから終わりまでずっと信じるか信じないかという問題がある。古代の人は神を信じて、神は人類に美しいすべてを与えた。神の意向にそってことを進めて、神がそれに栄光を与えた。しかし、現在の人は神を信じない。さらに魔性をもって神に背くすべてをやっている。したがって、神は人に懲罰を与える。それで天災や人禍が現れる。実は古人と現代人の根本区別は神を信じるか信じないかの区別である。古人の道徳も神を信じたため、神はそれを高いレベルに保った。「なぜ古人や昔の人間の道徳は高尚なものなのでしょうか? 実は人間は非常に低能で、彼らの道徳が本当に高尚だったのではなく、悪いことをしたら悪報、良いことをしたら良い報いがあり、人間が善良でなければならないと分かっていたからです。」《法輪佛法−カナダ法会での説法》

修煉の道の上もずっと法に対して信じるか信じないかという問題がある。時々、我々自身が何かできるのではなく、我々がこの法を信じるから、先生は我々にすべてをしてくださる。我々がなにか悟ったとしても、これも法を信じるから、法理が我々このレベルの理を現してくれる。もし法に対して信じない、懐疑的で、それはなにも悟らないものである。「自分の悟りというのは、修煉の中で困難にぶつかって、克服してから引き続き修煉していくことです。これはあなたの悟りと言います。本当に理から何かを悟ります。もしこの法があなたに分からせないならば、あなたがいかに悟りたくても悟ることはありません。ですから必ず一つの条件を備えなければなりません。すなわちあなたは必ず真に修煉していかなければならないのです。」《法輪佛法−ヨーロッパ法会での講法》 実際に信ずるか信じないかの問題も修煉の中で絶えず選択の問題である。先生は言われた、「法は全ての邪悪、虚言を破り、正念を固めることができます。」《妨害を排除せよ》 我々は信ずることを選んでいれば、我々は先生が我々に要求する3つのことをよくできる。邪悪が大法を迫害するに向って、我々が法を信じることで、先生と一緒に法を正すことを選んで、衆生を済度することを選んだ。修煉の道は絶えず不信を取り除き、信を選んで、最後まで信じることは、円満して家に帰ることを選ぶことになる。

個人の悟りで、妥当でないところがあれば、慈悲をもって指摘して頂きたい。