日本明慧


同修の欠点に如何に正念をもって対処するか

台湾学習者筆

【明慧ネット7月8日】「転法輪」第四講で師父は言った。「われわれはどのようにこの問題に対処すべきでしょうか? このようなトラブルに遭遇した時、まず冷静な態度でいなければならず、相手と同じような対処の仕方をしてはなりません。もちろん善意をもって説明し、事実をはっきりさせるのは構いませんが、しかし、あまりこだわりすぎてもいけません。」 私は同修が私に言ったことに執着していて、その同修が私について誤解したのだと思った。私は気にしないことにし、彼の言葉の裏にあるものを考えてもみなかった。その代りに、彼の言った言葉、「これは私の慈悲と善意と思いやりに基づくと思った」に対して私が感じたことを彼に言った。師父は「善意をもって説明し、事実をはっきりさせるのは構いませんが、しかし、あまりこだわりすぎてもいけません」と言った。私はこれを理解せず、冷静な心をもたず、執着した。

その同修が心から彼の法に基づく認識を分かち合ったことに、私は非常に感謝した。彼との応答から私はかなり向上した。これを私は皆と分かち合いたい。彼は言った。「他の同修の欠点があまり重く心に留まるなら、問題は実際には自分にある。それは他の人の欠点が私達の執着に触れたからではないか? 自分の内面を見る代りに他人の欠点に注目したということだ。」

時々他人の欠点が私に重くのしかかった。しかし何故だろう? 多分私の中の修煉がよくできていない部分が影響され、それが他人の欠点に執着させたのだ。何故それを放下できなかったのか? この時点で私達は正念をもって自分の内面を見、自分の執着に対面するべきである。

師父は、問題が起きた時は皆が、問題を目撃した第三者でさえ、自分の内面を見るべきであると言った。しかし私は自分が第三者であった場合でも、平静でいられなかった。修煉者は皆改善するべき部分をもつが、正念をもって自分の内面を見ることを忘れてはいけない。それによって私達は同修の欠点に、修煉者の純正な態度と忍をもって対処することができ、自然に大法の一体を強めることになる。

転法輪「病気治療の問題」で師父は言う。「気と気の間には制約作用がありません。」もしも同修の意図するところが一時的に分からないなら、又、同修に対し善意に欠け、相手の執着だけに執着するなら、これは一難をもたらし、自己の修煉に障碍をつくることになる。更にこれは大法の仕事に悪影響を与え、大法に損失を与えることにもなる。旧勢力と邪悪はスキを利用して破壊をもたらす可能性がある。このような態度は旧勢力のやり方ではないか? 旧勢力は他を変えることだけを望み、自分達を変えようとはしない。また私達はしっかりと、表面的調和を保つ正念を失わないようにするべきである。内面を見、善意に心を開いて自分の見方を提供することが、全体の向上の為のカギである。師父は言った。「最後に近づく程差が大きくなります。ですから認識においてきっと食い違いが出てきます。」(大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説) 私はしばしば同修達がこの言葉を口にするのを聞くが、殆んどの場合同修間の交流において、失望したためである。実際修煉が良く出来ている者は、認識があまり高くないように見える同修に対して、このような言葉を引用しない。誰がどの次元に居るのか、誰も分からないのだ。だから問題解決が出来ないからと、師父のこの言葉を引用するのは、心性に欠ける。この様な態度は、純粋な慈悲と修煉者の謙虚さに欠ける。

師父は言った。「肝心なのはどのように協力し合い、協調するかということです。」何かを行なう時常に協力し協調すること、そしてより多くの衆生を救うことを基点にし、「差が大きい」というような考えを持つことがなければ、うまく行くだろうと私は認識する。自分のアイデアや認識の仕方に強く執着し、自分が他より優れていると思うなら、それは旧勢力に利用されるスキを与えることになる。

「2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説」で師父は言った。「師父の心のなかにはあらゆる人が詰め込まれています。」何と容量の大きいことか! もしも他の人の提案や発言が、全体を前進させることができるなら、何故私達は自分のエゴを放下出来ないのか? 自己の案に執着して先入観をもって人の意見を聞くべきではない。そうすることは自己の修煉における障碍となるだけでなく、全体の向上と衆生を救うことにも大きな影響を与えることになる。

交流において他を大切にし、尊敬し、誠実であるなら「柳暗花明又一村」(転法輪第九講)となる。以上は私の個人的認識である。

間違いがあれば、慈悲をもって御指摘願いたい。