日本明慧


明慧ネットを大切にすることについて

文/アイルランド大法弟子 趙明

【明慧ネット7月2日】数日前、明慧ネットで「明慧ネットを大切にすることは、当然負うべき責任である」という文章が発表されましたが、私もこの文章に賛成します。この文は、国内のいくつかの出来事と、かつて有った明慧ネットに対する私の考えを思い出させました。自分の気持ちを文にしたのは、みなさんと交流をしたいからです。不適切なところが有りましたらご指摘をお願います。

今日、明慧ネットの論争は、師父のお話しが無かった初めの頃と比べると、ずっと少なくなりました。当初の頃は、海外弟子の中では明慧ネットのようなウェブサイトを開設すべきかどうかの問題をめぐって、大きな論争がありました。迫害の初期、国内学習達は、表に出て来るべきか、明慧ネットを見るべきかなどで、明慧ネットに文章を伝達するにも大きな争議がありました。師父のお言葉の通り、「このような過程のなかで、学習者達はさまざまな具体的な問題にぶつかり、たくさんの困難があります。初めの頃は、どうするべきか戸惑いもありますが、後から段段分かってきて、どうするべきかわかるようになりました。」(《北米の大湖区法会講法》の中で)その後師父は、事実上の明慧ネットが背負っている方向性を明確に認められました。したがって明慧ネットに関して信じるべきかどうかは、すでに探求する必要はありません。しかし、正法に対して良く理解が出来ない、少数の人達はまだはっきりわかっていません。

私達は明慧ネットと一緒に一歩ずつ歩んできました。明慧ネットは、これらの全体の過程を記録しました。迫害の中、メディアが完全に閉鎖されている状況下で、明慧ネットは、私達大法弟子が互いに交流しあえる一つの場を提供しました。同時に、迫害の事実を暴き出す場でもあります。私達が互いにどうするかを協議し、良い考えを展開して、迫害を終らせるようにします。こんなに深刻な迫害下で私達はこれ以上のルートと交流方式はありません。私達は、明慧ネットを大切にすべきです。すべての法輪功をやっている人もやっていない人もみな明慧ネットを大切にすべきでです。交流の場所として、様々な問題は、私達全体の認識不足から来るもので、観点の違う文章の表れはある意味正常ではないでしょうか?公表した迫害事実の偶々の食い違いも避けられないことです。このような食い違いは、重要な部分ではなく、全体的な私達の歩みとしては、とても正しいことです。これらの食い違いは、このような厳しい環境のなかで互いに交流し、迫害の真相を暴き出す目的には影響がありません。

少しの食い違いですべてを否定することは、変異した絶対化的な思考方式です。中国の政治闘争のなかで人を苦しめる人達にとっては、あなたを苦しめるためにはどんなレッテルでも貼り付けます。たとえ貴方になにもなくても、殺すまでしてそれを焼身自殺と見せかけ、罪を被せるのです。邪悪が、暴き出され、いたたまれない時になると、明慧ネットのちょっとした食い違いを探し出します。しかし、彼らが言っていることは、嘘と誹謗中傷ばかりです。それには出発点と目的に根本的な違いがあります。邪悪な江氏集団のイデオロギーは人間性を重んじない、道義を信じない、神を信じない。暴力機械とマスコミ機械を占有して、それによって、誰を苦しめようが「罪」を認めさせ、死刑に処されても罪は償えないと叫んでいます。本当のことを言う事自体が「極悪非道」になります。しかし、私達は彼らとはまったく異なっています。道義上においても、天や神の場においても、善悪が混ざることはまったくありません。彼らは、人が真相を知ることを恐れていますが私達は恐れていません。私達は食い違いを認めますが私達の出発点は事実を正し、本当のことを言い、真相を伝えることです。

私が不法に労動教養所に拘禁された時、悪警察は、明慧ネットに「趙明の足が切断された」という報道が出たと言った。その時私は悪警察に対して「もし、これが本当のことであるならば、私は事実を明らかにさせます。私の足は折れてはいませんがここで何が起きているかを私は言います。」と、言い返しました。私の返事の後、彼らは「事実を明らかにする」ことに関しては言及しませでした。

2001年に別のチームに転送されましたがそこでもまた悪警察の用意した明慧ネットに対する攻撃にあいました。私は「私達大法弟子は真相が明らかになることを恐れていません。もし、本当に食い違いがあるならば、私達は訂正します。将来、この迫害の終了後、私達は全ての当事者を訪ねて、全ての明慧ネット記載事件を訂正し、歴史に責任を果たします。まさか、訂正し終わった後、すべての迫害記録の事実が存在しなくなるのでしょうか?」と質問したら悪警察は言葉につまりました。

この江氏集団は何時もむやみにみんなにレッテルを貼り人を苦しめている。2001年の旧正月、私は新安労動教養所で、中央テレビ局報道で天安門焼身自殺番組を見ました。悪警察と邪悪に加担する人達はまるで、勇気付けられたように、その後の迫害と邪悪な理論を正当化していった。その時、彼らの邪悪な本性から「将来彼らはまた法輪功が人を殺していると捏造する」と、私は思いました。やはり、その後まもなくして怡彬の殺人事件が放送されました。列車事故などの事件を全て法輪功に被せました。これは、初期において法輪功が人の健康を害したというデマと何処が違いますか?ただその手段がきわめて陰険悪辣になって、法輪功に罪を着せるために、彼らは本当に人を殺し、その殺人罪名を法輪功にかぶせているのです。

実際のところ、大法修煉者が行っているすべては非難を受けるべきものはなにもありません。私達は平和的で、基本的な人権を求めているだけです。しかし、中国のこのような政治環境の中で、長年に渡り人は盲従させられ、頭の中にはすでに人権の概念と願望がなくなっています。その上、最も愚かなのは無知に政府の人権迫害行為に盲従していることです。最近、師父のバンクーバーでの講法を読んで、私は当時国内で偽の経文を伝えた人は本当に慈悲ではないと感じました。

師父は「どんな心が彼をそうするように導いたのか?そこには彼の執着心があります。彼は常人の心に合わせたものがあってはじめてそうするのです。貴方は、彼が意図的に法を破壊したと思いますか?私はそうではないと思います。彼に執着心があって、常人の心があったからこそ邪悪がしたがっていることをやり、大法弟子の法を正すことを邪魔したのです。」と、述べました。(《2003年のカナダバンクーバー法会講法》)

明慧ネットに対して正しくない認識を持っている学習者達も同様に「彼らに執着心と常人の心があってこそ、彼はそうしていると、私も思います。

現実と未来の角度から見て、明慧ネットの力はこの上なく偉大です。現在、人類が代々にこの歴史を伝えることができるのは、主に明慧ネットに記載されているものです。明慧ネットは、苦難に満ちた中でもこれらを記載し、大法弟子の法を正す実証の偉大な文章を残しておけるからです。この点から言うと、私達はもっと明慧ネットを大切にすべきであり、未来の人のために責任を持って、厳しく明慧ネットに接するべきです。現在、それらの邪悪に従って明慧ネットをそしる人達は、もし、将来分かってくる時がくれば、たいへん恥ずかしく感じると思います。