日本明慧


本当に分かる

文/濯塵

【明慧ネット7月24日】一部の学習者は魔難に落ち込んで長期間突破されないでいる。そこで法を良く勉強するようにと同修が進めると彼らは、「法は全部知っているが、関を通過出来ない。」と言う。その意味は、法を勉強することと関を通過することは別問題だということだろう。
 
法を本当に分かるまで勉強したか?本当に分かったのなら、常人の心理状態ではなく修煉者としての心理状態で魔難に対応しなければいけない。さもなければ、常人が言っている「分かった」であり、修煉者が言っている「法を良く勉強する」ではない。常人は分かっていても、分かった通りしなくても構わないと思っている。しかし、修煉者は法が分かると堅い正信が現れて来て、自覚し法の基準にしたがって自分を律し、大法に同化する。

本当に分かったということは、表面の文字を覚えるとか理解することだけではない。他の空間にある体が大法に同化し、法から証悟した境地が絶えず昇華する。さらに執着心を放棄し、正信が一層堅くなる等、いろんな方面に現れる。この空間に現れると、学習者は法を正す修煉の中で、正念正信を固め、全てを師父から教えられた通りに行い、絶えず精進することである。
 
この意味で、「分かった」と言いながら長期的に魔難に落ちて前進しない学習者は本当に分かったとは言えない。しかも、法は異なる次元において異なる内包があり、高ければ高いほど眞理に近づく。修煉者にとっては如何に多く分かっても、ある次元の法理しか理解できない。我々修煉者がはっきりしなければならないことは、我々がどんな高いレベルまで勉強し、円満したとしても、膨大な宇宙法から証悟したある次元の果位だけであり、全ての宇宙大法を悟ったことでは決してない。
 
つまり、「分かった」と言ったから本当に分かったことではない。「私はみんな分かった」という一念は、常に自分の心にある執着心を守るために生じ、邪悪な旧勢力があなたの執着心の隙間を利用してあなたを迫害することにより生じる。その目的はあなたに法をわかるまで勉強させず、最後はあなたを高い次元から引き下ろして破滅させる。我々はこの問題をはっきり認識しなければならない。修煉者は心から法理に従って法を認識し(常人の知識や理論を勉強する態度のように法を勉強するのではない)、妨害を排除して正念を固めなければならない。そして法を真面目に勉強すれば魔難を早く乗り越えることが出来る。