日本明慧


江XXに対する告訴と公判に関する少しの考え方

文/善果(海外)

【明慧ネット7月30日】シカゴでの江XXに対する告訴案件は未だ継続されている、毎日いつでも締め切られる可能性があり、裁判官から江が免除権を持てるかもしれない決定が出る可能性もある;毎日いつでも継続され、私達に幅広く真相を伝え、世人を救い済度する時間を更に与える可能性もある。(実際これらはかなりの部分、私達により決められる、当然、常人が常人政治に対する観察と得失の心も一定の作用はあると同時に、最近ネット上には江沢民を公判する情報が比較的、多く載っている。ここで、私は自分の見解を少し提出しようと思う。それは、正法修錬として、江XXに対する告訴であり、或いは公判であり、出発点を正しくするのは極めて重要だということです。

一部の仕事をする心がわりと強い学習者はよくこう言う:“法理について私達はとっくにはっきりしている、今必要なのはもっと多くの行動だ”と。但し正念と正しい行いは宇宙の特性真善忍で判断するべきで、自らの自画自賛とか主観的な当たり前のことではない。したがって、新しい状況が現れるたびにみな冷静に、客観的に、理知的に自分の出発点と根本的な考え方をしばらく念入りに見ることが、いつも有益である。

例えば、慈悲に衆生を救い済度するためか、それとも仕事をした後の結果を追求するためか;邪悪を取除き、真相をはっきり伝え、衆生を救い済度する過程を設けるためか、それとも悪意を持ち残りの腐敗物らを制裁して、個人の心の不平をなくすためか;或いは個人の成績と功績のためか、それとも真に私心がなく未だ救われてない世人のためか?これらは出発点と関わる。私達は内心の深いところの真の出発点は隠せないと、旧勢力の裏の使いにはそれがはっきり見えるので、利用しようとすると思う。従って衆生に対する責任を負うためには大法修錬者の自我純正が非常に大事である。

師父は2003年ワシントンDC法会での説法でこう指摘された:“慈悲は修めて出来上がったものであり、表し出すものではありません;心から自ずと発されるものであり、やって人に見せるものではありません;それが永遠に存在しているものであり、時間、環境に随って変わるものではありません。”と。

江に対する告訴であり、公判であり、常人から見ると、みな具体的な行動であり、当然常人社会の形態にあわせなければ成らない;但し正法修錬の角度から見ると、その形式はただの一つのキャリヤーに過ぎない;この過程で私達は私達がやるべきこと——真相をはっきり伝え、邪悪を取除き、衆生を救い済度することをするので、その過程は常に最も大切である;その結果は必ず私達が行う過程の自然かつ具体的な現れである、即ち私達が真に真相をはっきり伝え、邪悪を大量に取り除き、人心を正しくすれば、最も良い結果が現れるし、これに反したら私達自身に漏れがあるが、未だ気づかなく、漏れがあって直ちに直されてないことを証明する。ジュネーブでの数年に渡る連続てきな忙しさは私達にとってこの4年の中で非常に明らかな教訓であり、しかも師父から既に明確に指摘されている。私達は深刻に教訓をくみ取らなければならない。

具体的な公判に至ると、私は個人として公判が実は肝要なことではなく、この公判式を借りて江沢民——邪悪の首魁を全面的に暴露し、全面的に真相をはっきり伝える事こそ大切だと思う。人民からの真の大審判は必ず遠くない未来に行われ、人類社会で発生する、これは私達が取って代われない、それは主役が違い、効果が違う;然し私達大法修錬者が真相を伝え、世人を救い済度することも常人に取って変われない、しかも時効性があり、法を正す大きな勢いが到来する前にやらなければならない。歴史の機縁は一旦失ったら、その損失は永遠に補うことができない、しかも時間が少ない中、私達が着実に修めたかどうかさらに見通される。