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正信 ─ 西遊記を見た感想

中国大法弟子筆

【明慧ネット7月24日】ある日、私は妻と交流していた。会話中に彼女は、テレビ番組のシリーズ「西遊記」の始まりの場面を述べた。

玄奘は山の頂上に坐っていた。前面には深い谷があった。彼は、観音菩薩が対面する山上で待っているから来るようにと言われた。そこへ行く路は無かった。たった一つの路は深い谷を通る路であった。玄奘は何も考えず佛の名を念じながら、その山の方へ歩いて行った。半分くらい行った処で彼は、自分が雲の上を歩いていることに気付いた。その山に到着して、玄奘は坐って観音菩薩を待った。美女の一群が現れ、玄奘にまといついた。しかし、彼は動じないで、彼女等を追っ払った。暫くの後、鬼神達が大きなフライパンを持ってやって来、フライパンの中では一人がフライされていた。彼らは玄奘が通り路の邪魔になるので、除くように言った。玄奘は、観音菩薩がそこで待って居るように言ったので、除くことは出来ないと言った。鬼神達は玄奘をもフライするぞと脅し、沸騰している油を彼の上にこぼした。玄奘は彼らを無視し、佛の名を念じた。鬼神は消え去り、観音菩薩が現れ、彼に西方へ行って経典を入手するよう頼んだ。これが西遊記の始まりであった。

西遊記を読む修煉者は、その物語全体が修煉過程を述べたものである事が分かる。玄奘の物語が例である。佛法の真理に対する信心が無ければ、一般人では玄奘が成し遂げたことを成し遂げることは出来ない。彼は万丈の谷に面しても、躊躇せずに前進した。この空間における修煉の路は、同じ形式として現れないかもしれないが、同様に曲がりくねった、でこぼこ路である。時にそれは心と、師父と大法への信心の試練として、あなたの前に深い谷の様に現れる。そこには色欲や恐れ、その他の幾多の試練がある。人間は多くの執着を持つ。修煉過程において、それらの執着を暴き、取除く為に、相応の試練がある。「修煉とは人間のあらゆる執着を取除くことです。実際、修煉とは心を修することにあります。」(転法輪法解、北京における転法輪出版祝賀会での説法 — 非公式訳) 私は玄奘の信念は、人間的観念の無いものであることに気付いた。それは純粋な信仰であった。彼は前方に谷があることや何が起きるか等、考えずにその山へ向かって行った。彼は如何なる雑念も持たずに行ったので、大丈夫であった。大法弟子のことを考えると、ある者は法を証明しに天安門広場へ行き、何事も無く同日帰って来た。ある者は逮捕され、留置され、拷問に遭った。これは修煉の境界と関係する。そしてそれは修煉者の人間的観念、恐怖心、雑念と関係する。山に到着した玄奘は、観音菩薩が待つよう言ったので、待った。色欲の誘惑や鬼神の脅しも、彼の心を動かさなかった。大法弟子は躊躇うことなく、師父の言葉を聞かなければならない。私を含む一部の弟子は法の深い認識に欠けるので、情況がほんの少し悪くなっただけで、躊躇いが起きる。一部の弟子は師父が言ったことに疑いを持ち、困難に出逢うと恐れと人間的利益への執着を放下できず、圧力の下で反対側へ行ってしまった。その結果、師父と大法を攻撃するようになってしまった。それを注意深く分析して見ると、一部の弟子は完全な正信を持たず、重要な時に表面化する人間的観念が多すぎることが簡単に分かる。だから私達は純粋な信念を希薄にする、人間的観念を取除く為に、法の勉強にもっと多くの時間を費やさなければならない。実際、玄奘は、佛法の真理を追求しようとする真心を基点に、経典を入手しに西へ行くという偉大な仕事を完遂した。経典を入手すればどういう事になるのか等、誰も彼に言わなかった。一方私達の師父は、法を正す時期の大法弟子の偉大さを私達に告げた。何故私達はまだ躊躇するのだろうか? 現在法を正す時期の最後の段階にあり、師父は法をますます明らかにした。私達は更に精進し、人間的観念を取除き、師父と大法に対する堅固な信念をもち、法を正す時期の大法弟子として成すべき事を成すべきである。如何に困難な情況にあっても、私達は「大法弟子の将来は必ず光り輝くものであり、しかも絶対光り輝くものになります」(2002年米国フィラデルフィアでの説法) と、覚えておくべきである。